sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

ビリー・マイヤー氏インタビュー(霊の教え編)9

 

 

今回は一神教徒、欧米人には苦々しいものです。

 

問13) 多くの人間は守り神、霊の先導者、神、その他高次の力、聖人または

エス·キリスト等によって導かれ、保護されているというように信じています。
そういうことは本当にありますか。


ビリー・マイヤー氏

いいえ、絶対にありません。

なぜならば人間は自分の思考、感情、感覚、行為等に対して常にいかなる場合に

おいても、全く単独で責任を負うからです。
ただ、あらゆる種類の宗教や教派は、神や聖人、守り神やイエス·キリストが人間の

運命を左右し、したがってそれに対して責任も負う等と主張しています。

しかしそのようなことは、宗教や教派の頭目たちが盛んに煽る宗教·教派的狂気以外

の何物でもありません。

それは人間を自分たちに引き寄せて縛り付け、徹底的に金を絞り取り、搾取できる

ようにするためです。

しかし実際には宗教や教派が宣告するような創造主·神というものは存在しません。

なぜならば、真に存在するのは創造のみだからです。

それは宇宙意識として自らの内に全宇宙と万物を創り出しました。

これにはあらゆる生命形態が含まれますが、人間もそれに属しています。

そしてこの創造は人間には何も要求せず、また人間が考えたり行為したりする何らか

の事柄に対して責任を負うことも決してありません。
要するに、人間はあらゆる点ですべてのことに対して自分で責任を負い、またこの責任

とそのすべての帰結も常に自分自身で担い、十分に味わわなければならないのです。

それは、人間が何を考え、どんな行為や行動をなすかには全く関係ありません。

しかしこれはまた人間は高次の力から絶対に独立しており、そうしたものには決して従属

していないことを意味しています。

したがって高次の力が保護の働きをするということはありえません。

霊の先導者も、イエス·キリストも、神も、聖人も、守り神、その他の元型もありえません。

それらはことごとく宗教や教派の作り物であり、人間を本当の真実からそらして、人間は

自立してはおらず、まさにより高次の力に従属しているというように信じ込ませるために、

発明され、作られたものです。

これが行われたのは極めて早い時期であり、それは人間を奴隷として従属させ、決して

反抗して立ち上がることなく卑屈にも抑圧状態に身を委ねるようにさせるためでした。

 

問14) 神や、それどころか神々、聖人や守護神等を信じ
ているすべての人間をどう思いますか。


ビリー・マイヤー氏

私たちの真理の教えは、人々の宗教や教派あるいは何らかの信仰を破壊することを

目指していません。

だから私たちには寛容でなければならない、布教活動を行ってはならないという規則

もあります。
したがって私たちの側から宗教や教派の信者に近づき、私たちの教えに変えさせる

ということは決してありません。

私たちのモットーは、人間は誰しも自分の信仰や知識に応じて信奉するものにより

幸福になるというものです。

つまりある人が神なり守護神なりを信じている場合、私たちはこの人からその信仰

を取り除こうとはしません。

私たちは人が自ら私たちのもとにやって来て、私たちの教えや知識について尋ねる

場合のみ、仲介します。

私たちはこのような仕方でのみ情報を提供するのです。
たとえ布教しないとしても、宗教や教派に関する真実を広めることが私たちの使命で

あることには変わりありません。

しかし、これは専ら関心のある人々に配布したり、販売したりしている著作物の中で

しか行いません。

これら関心のある人々もまた自由意志で私たちのもとにやって来たもので、布教に

よって折伏させられたわけではありません。

この場合もちろん彼らの質問に対しては、望まれたすべての有益な答えや説明を

与えます。

これらの答えや説明は言うまでもなく、人間は決して信じるべきではなく、認識して

真理を見るべきだという、私たちの教えが意味するものへと導きます。
すべての関心ある人々に対して明言しなければならないのは、信じるということは

人間を依存させ、さらには従属させて、しばしば狂信主義に導き、それによって思考

の自由が制限されるだけでなく、抑圧されたり破壊されたりするということです。

しかし人間は自由であろうとするならば、自分自身の思考の自由も持たなければ

なりません。

そうすることにより人間はすべてのことを自分自身で決定することができます。

このとき人間は、愛に溢れたと称しながら実は復讐心に燃えて罰を与える神の

ダモクレスの剣が、いつ自分の頭上に落ちて来るかわからないという不安を抱く

必要はありません。

人間は自由であって、あらゆる決定を自分自身の責任で下し、またすべて自分

自身で行動できなければなりません。

最初に神や守護霊やイエス·キリスト等に許しを求めたり、事の善悪を問う必要

はありません。

そのようにするのは、こうした空想上の人物が規範を定め、それに対して責任

を負うと信じられているからです。
真実は、人間はいかなる場合も自分のすべての思考、感情、思案、願望、行動

に対して、常に自分自身で責任を負わなければならないということです。
その結果として、人間はまた常に自分自身で善または悪について、あるいは

否定的なことや肯定的なことについて決定しなければなりません。

そしてそうするためにも人間は絶対的な思考と決定の自由を必要としており、

仮想の力が人間に対して規則を定めたり、何らかの形でその自由や決定に

口出しすることはできないのです。

しかしまたこのことから、人間が自分で決定を下すことができるためには、

真理について知らなければならず、絶対に知識が必要だということが明らか

になります。

しかしこのような知識は宗教や教派によって圧殺されてしまいます。
知識とは力を意味しますが、この力こそ宗教や教派が手に入れて利用し、

それによって利益を得ようとするものなのです。

知識から遠ざけられている人間は、信仰によって宗教や教派にはまり、犬の

ように卑屈になり、思考の自由と決定の自由、そしておよそすべての自由を

失うのです。

それによって彼らはまた他の人間や、それらの生活様式および考え方等に

対する寛容も失います。

彼らの信仰態度は歪んでいき、他の宗教の信者や単に異なる意見の持ち主

から自分たちの信仰を批判的な見方をされると必ず激怒します。

しかし人間が互いに愛と調和において共存して生きていきたいならば、人間

同士の間の寛容こそ必要なのです。

しかしそのために必要なのは決して信仰ではなく、創造の全能の前ではすべて

の人間は本来平等であるという真理と確信です。

それは、どのような人間であろうと、いかなる人種、肌の色、国籍であろうと、

キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒ヒンズー教徒、仏教徒儒教徒、

その他社会からドロップアウトした何らかの教派信者であろうと、金持ちで

あろうと貧乏人であろうと全く関係ありません。


つづく
(出典: FIGUスイス ホームページ)