sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

真の自己である霊と、私という人間24

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんこんにちは。

 

このブログで探求しているのは、一言にすれば、「真理・真実」です。

それも最も根源的で絶対的真理であり、人間の抱く根源的な問いに

明確な答えを与える真実です。

ただの知識ではなく、人間自身と人生の謎を解き明かし、

生きる目的・意味・価値を示し、人生の岐路において指針となるものです。

 

しかし、この真理ほど、まがい物や偽物と本物を見分けるのが困難な

ものはありません。

それはまるでガラス玉の山の中から一粒のダイアモンドを探すようなものです。

比重や硬度などを測る機器もなく、反射光の違いを肉眼で判別するしかない。

そんな感じです。

また、人間は自分を取り巻く世界・宇宙と、その背後にある目に見えない

ものを含めた真実の総体の外側に出て、真実の全体を見渡すことは

不可能です。

人間にできるのは、自身が真理の総体を構成する一部であるという自覚の

下に内側から洞察・推察することだけです。

必然的に人間は真理・真実の全体を理解することは不可能です。

私たちより遥かに進歩したプレヤーレンにも未解明のものがあるという

事実からも分かります。

しかし、人間が自己のうちに知識・論理・理性を高めていくなら、

必要とする真理を理解できる範囲で、利用できる範囲で獲得することは

可能なのです。

それは人間の権利であるが義務でもあり、相応の責任を負うことでもあります。

 

では、私たちは何を知りたいのだろうか?

何を知るべきなのだろうか?

 

現代はまさに文明の過渡期・転換期であり、人間の存在意義と人生の

意味・目的が失われた時代です。

それゆえに私たちは新たな時代に向けて”人間とは何か”という議論を

前進させる義務があるのです。

前進するために必要なのは、進む方向を決め障害物を除去することです。

そのために虚無主義唯物論の誤りを知り、神仏という障害を除いたのです。

そうすることで道は開け、人間の真実がようやく視界に入ってきます。

それが「霊の教え」であり、霊と創造の真理です。

「霊の教え」は、人間が考え出した人格神の物語のようなファンタジー

ではない。

地球人と関わる地球外知的生命体の中で最も進化した種族のプレヤーレン

が真理とするものです。

ビリー・マイヤー氏こそ彼らの仲介者として選ばれたただ一人の人間であり、

同時に「霊の教え」に通暁する唯一の教師です。

今後、教えは数百年をかけて地球人にも理解されるようになると、プレヤーレンは

予告しています。

 

「霊の教え」が既存の宗教と明確に違う点は、信仰や礼拝を必要としない

ことです。

 

その教えの特徴は次の通りです。

 

①霊的意識的超越的存在である「創造」の実在と遍在。

相対的全知全能性と永遠性。

②被造物および森羅万象は「創造」の一部であり、「創造」はその総体でもある。普遍的一体性。

③人間の核心、真の正体は「創造」起源の霊である。

④転生するのは霊であり、人間の意識・人格は人生ごとに新しくされるが、

人間に生命を与える霊は永遠不滅である。

⑤人間、または人間と同じように進化する霊由来の知的生命が宇宙には

多種多様に存在する。

⑥すべては霊的意識的超越的存在である「創造」の進化活動である。

⑦私たちの属する「創造」は進化の第一段階にあり、別の進化した「創造」が

創出したものである。

私たちの「創造」も進化の次段階に進むとき、それを行う。

この進化プロセスを創り出したのが最初の「創造」、「絶対的絶対」と呼ばれる

「創造」なのだが、それは人間の及び知るところではない。

 

次回からはいよいよ人間の霊、転生という話になります。

今までは地ならし、下地作りだったわけです。

ではまた次回に。

 

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真の自己である霊と、私という人間23

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんこんにちは。

そしてこんばんは。

 

複数回に渡っての人格神信仰批判も今回で終わる予定です。

ですのでちょっと長くなります。

 

前回までのおさらいをしましょう。

全知全能なる神が人間を創ったのであれば、人間は神の意図・構想が

完璧に実体化された被造物・生命体です。

人間が神に背いたり、堕落して原罪を負ったりしたのは人間の責任ではなく、

製造責任者である神の責任です。

それなのに、神自身が創った人間に対して神が悲しんだり怒ったりするということは、

神にとって人間は失敗作であったということです。

つまり神は失敗したということになり、全知全能ではないことになります。

さらに、天国と地獄という差別選別システムを創り、人間に服従を要求し、

従順な者は天国に入れるが、逆らう者はナチスの収容所やシベリアでの

強制労働より遥かに過酷な罰を与えると恫喝するのです。

これのどこが全知全能なる愛の神なのでしょうか?

ヒトラースターリン毛沢東といった独裁者が可愛らしく思えてきます。

 

このように普通に考えただけでも不審な点が次々と出てくる人格神だが、

21世紀になっても多くの人が信じている。

「神が私の人生に光をもたらしてくれた。」

「神こそ希望の光です。」

といった言葉の奥底には次のような本音が隠れている。

「神よ、どうか私から死の恐怖を取り除いてください。」

「神よ、どうか私を天国に引き上げて永遠の幸福を与えてください。」

というのが本心です。

それがこの人格神を信仰する目的であり、死後の幸福のために信じるのです。

そしてこの構造は救いを説く宗教に共通するものであり、信仰の代価として

現世・死後生・来世の利益が得られるということを信じているのです。

 

そのような信者の願望を巧みに利用し、神との仲介者という名目で権威を

振りかざし、信徒から搾り取って財を成すのが教派・宗派です。

彼らにとって信者は飯のタネであり、信徒の減少は死活問題です。

だが、彼らの説明や教義は穴だらけであり、時代の移り変わりとともに、

まともに思考する者を説き伏せることが困難になってきました。

そこで彼らは、彼らの教えが継ぎはぎだらけであることを隠すために、

ある発明をしました。

それが

「神のみぞ知る。」

「神の御心は人には理解できない。」

「神は人の信仰を試すことがある。」

「神の計画は必ず成就するが、人間にはその方法や経過を理解できない。」

「神は人間の知性では理解できない。」

「神は心情を通じてしか分からない。」

「神は信じられないようなことを信じる者に恵みを与える。」

といった言葉です。

そう教えることで湧き上がる疑問や反論を封じ込めてきたのです。

このような高圧的で信じることのみを強要する教えを私はこう呼びます。

神の味噌汁(かみのみそしる)

これは「神のみぞ知る」をもじったものですが意味はこうです。
神が作ったといわれる味噌汁が目の前にあります。
しかし、どう見ても泥水にしか見えません。
そこで近くの僧侶に質問します。
本当に神が作ったのか?いつ作ったか?材料はなにか?調理法は?
自分の前に食べた人がいるか?本当に味噌汁か?と尋ねます。
すると僧侶は答えます。
「神を疑うのですか?あなたは試されているのですよ。
その昔ノアは神を信じ箱舟を造りました。
アブラハムは息子の命を捧げようとしました。
それなのにあなたは泥・・味噌汁一杯も信じて飲めないのですか?
さっさとありがたく飲んで、布施しなさい。」
ということです。
 
今回は長くなりましたが、最後にもう一つだけお付き合いください。
上の神の味噌汁の中の一つに関してです。
 
「神の計画は必ず成就するが、人間にはその方法や経過を理解できない。」
 
と言われています。
これにも徹底して反論しておかなくては終われません。
ここでいう神の計画とは人間の救済と最後の審判のことです。
それが必ず成就するとは、神が全知全能なる者だからなのですが、
その全知全能性は人間の創造の件でとっくに否定されています。
しかしそこには敢えて目を瞑り、神の計画が成就するとしましょう。
 

~神のヤラセ、マッチポンプの救い~

神の人間救済計画とは簡単に言えば人間を神側に奪還・復帰させることです。
どこから奪還するのかというと、悪魔=サタン=闇の勢力からです。
つまり神陣営と悪魔陣営の戦いに神が計画通りに勝利することです。
その様子がヨハネの黙示録として予言されていると教えられます。
戦争や災害が地上に満ち、多くの人間が犠牲になるが忠実な神の僕は
生き残り、最後に再臨のメシアが降臨して地上に神の威光と平和が
戻ってくるという話です。
光と闇の戦い、善と悪の戦いは最後には神の側、善なるものが勝利する
ことが確定しているのです。
善方、正しい方が勝つのですから喜ばしいのですが、ここで神の全知全能性が
問題になります。
神の全知全能性がこの戦いに勝利をもたらし、敗北の可能性をゼロに
したのですけれど、そもそもこの争いの原因は何なのでしょう?
今からその原因を言います。

争いの原因は神です。

神対悪魔の戦いで悪役の悪魔ですが、もともとは神に創られた天使です。
全知全能なる者が創った存在なのですから、目的通りの役目を果たすのです。
悪魔は神の敵役としての使命を実行し、人間を堕落させ、神が救済するための
お膳立てをきっちり行い、そして神に滅ぼされるのを待っています。
悪魔は自分に与えられた大役を無事果たしたことに満足しているはずです。
悪魔に限らず、この戦いに登場する存在は神を除いてすべてが被造物です。
人間も天使も堕天使も聖霊も悪霊も例外なく神が創ったのです。
ここでまた自由意志説を唱えても無駄であることは先日説明しました。
 
結論として神の計画などというものは存在しない。
あるとするならそれは神の計画という名前のヤラセ、マッチポンプの救済です。
神が全知全能ならばそれ以外の答えは無い。
またその目的も皆目見当がつかない。
自らの創造物を苦しめ、虐待する様はサイコパス神と呼ぶ方があっている。
全知全能なる宇宙と人間の創造主が被造物である人間から見ても、
サイコパスのように冷酷で、ヤラセをしてまで人間からの崇拝を求めるとは
支離滅裂も甚だしい。
反対に、もし本当に神が本気で悪魔と戦っているなら、それは神にも想定外が
あるということで、全知全能性が否定され全知全能なる神は虚構となる。
以上のことから最終的に全知全能なる人格神の存在は否定され、
人間の創作物という結論に達する。
 
人間が神に見ていた光・善・愛・英知・永遠・平和・荘厳・畏敬、そして全知全能、
それらは神から発していたのではなく、神より遥かな高みに在る「創造」より
流れ出たのであり、人間はそれを感受することで自らの発達・進化の方向
を知るのです。
 
ではまた次回に

真の自己である霊と、私という人間22

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんこんにちは。

今回も「神」批判を続けます。

 

虚無主義」批判のところでも言いましたが、ニヒリズムの信奉者は「虚無」が

何を意味するか深く考えずに人生を論じます。

そして人格神を信仰する人は、全知全能で完全とは何かということを考えずに

架空・空想の神には不可能な救いを求めるのです。

 

前回に書いたことですが、神を信じるとは論理的に知ることではなく、

まず神への感情的共感から始まり、それが依存と隷従へと変節することです。

この世界と人間を創った神こそ最も偉大で最大の力を持つ者であること。

そして神が人間を愛し、何とか救おうとしていること。

その証拠として聖書があり、アダムとエバの逸話から、神は人間が約束を破り

罪を負うことになってしまっても、常に気にかけ救おうとなさっている。

神は人間を救うために一人息子の主イエスを地上に遣わされた。

そのような神は愛の神であると説明されるのです。

と、同時に神に背く者、逆らうものは滅ぼされるということもいろんな逸話を

通じて吹き込まれ、神の恐ろしさも植え付けられます。

つまり神は救いと劫罰という”飴と鞭”で人間に服従を要求するのです。

 

このブログを読んでいる人は、そのような話が全くの出鱈目であって論理的に

破綻していることがお分かりになったでしょうから、そのような神を綺麗さっぱりと

何の心配もなく捨て去ることができます。

しかし、その単純な矛盾、

”全知全能なる者が被造物を差別し虐待するというトンデモ論”

を見抜けないなら厄介なことになります。

 

いくら外見は平静を装い神に感謝の祈りをささげても、自分の信じる神の実在は

誰も証明できないこと。

無数に存在する教派の中で、自分の所属する教派が本当に正しいのかは

誰も証明できないこと。

仮に自分の所属する教派が正しいとしても、自分が神から飴をもらえる人間である

かどうかは誰も証明できないこと。

上のようなことを考えただけで神の機嫌を損ね、自分の信仰心が足りないのではと

不安になること。

自分の所属する教派に不信感を抱くが、神罰が下るのが怖くて脱会できないこと。

奉仕や献金、礼拝や勧誘活動などで私生活が圧迫されること。

などなど、世俗の悩みや苦しみから逃れるために入信してはみたものの、

ふたを開ければ信仰上の悩みや不安や不満が出てくるのです。

もちろん入信してとても満足しているならそれに越したことはありません。

それで自分自身だけでなく、家族や友人や同僚ともよい関係にあるのなら、

それはそれで良いことです。

しかし、入信したことで余計に苦労したり、カルトの被害者になる人も

多く存在します。

 

そもそもの話ですが、冷静に考えれば、現在地球上にいくつの宗教が

あるでしょうか?

数えきれないくらいあります。

同じキリスト教でも教義の違いによって多くの教派・教団が存在します。

ユダヤ教でもイスラム教でも仏教でも教義の異なる教派・宗派が乱立

しています。

もし仮に、それら諸宗教諸派の中に真実・真理を正確に教えるものがあるなら、

それはX教Y派だけであり、その他大勢は間違った宗教ということです。

X教Y派の信者は救われ、それ以外は地獄行きということです。

X教Y派だけが正しいのですから当然です。

そして最悪の場合はすべての宗教が間違っていることも覚悟すべきです。

長い歴史を持つものほど多くの人間が関わることで変化し、本来の教えは

失われたり捻じ曲げられたりしているのですから。

 

何らかの宗教の信仰を持つということは、結局は現世もしくは死後生や

来世での救い・利益・功徳が得られるという思い込みです。

もしそのような救い・利益・功徳が無い宗教が存在するとしたら、

誰が信じ、礼拝するでしょうか?

お金を賭けないパチンコ、純粋競技の競馬と同じです。

いわば宗教とは、将来の利益を目論んだ株式投資です。

自分の好みの神格に人生を賭するギャンブルです。

だからどちらも依存症に陥り、判断能力の低下を起こすのです。

 

 

ではまた次回に

真の自己である霊と、私という人間21

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんこんにちは。

そしてこんばんは。

 

「真の自己である霊と、私という人間」という章も21回目です。

 

何故に私という人間が存在するのか?

何故今ある境遇に生きているのか?

といった人間にとって最大かつ最も身近な問題の答えを探すということは、

本当の意味で”自分探しの旅”です。

物理的に移動する旅行ではなく、思考を使って様々な思想・哲学・宗教などを

巡る旅なのです。

そのような思考の旅は、はるか遠い昔から現在まで数えきれない人々が

してきたことです。

この旅の目的地というか訪問先は今までほぼ二つに限られてきました。

科学・哲学方面の旅か宗教・スピリチュアル方面の旅です。

どちらも大人気でしたが、旅慣れた人は其々に不満や疑問を感じ始めています。

科学・哲学方面では、

「結局はすべてが虚無ということではないか?」

宗教・スピリチュアル方面では、

「ただ信じろと言われるだけで、論理的説明がない。」

といった意見や感想を持つ方が多いです。

そんな人こそビリーマイヤー氏のコンタクト事件を再検証すべきです。

直近ニュースにもなった通り、アメリカ政府も公式にUAP(未確認空中現象)

として認めるようになりました。

宇宙人や異星人は存在すると考える人の方が多数派になっているのですから。

 

ということで今回は、皆さん私の文章にも飽きたでしょうから、

ビリーマイヤー氏の著作「心」から一部を紹介します。

 

「心」191~195P

 

創造


「創造とは、宇宙とすべての生命に対して責任を負うものである。

創造とは、人間がおよそ想像し得る最も根源的で絶大な力である。

創造とは、生命における存在と非存在である。

創造とは、およそ存在し得る最も大規模な霊的エネルギーである。

創造とは、最も純粋な形態の霊であり、その英知は計り知れない。


創造は人間が知っている、あるいは知っていると思っている最も完全
なものであるにもかかわらず、創造それ自体は留まることなく常にいっ
そうの完成に向かって発展しなければならない。

創造は留まることなく常に新しい新生霊の集塊を生み出す。

これらは人間の霊の形態において人間に「魂を吹き込む」(霊を吹き込む)。

この人間の霊は、数限りない生まれ変わりを経て不断に発展し続けて、

完成に達するという使命を果たさなければならない。

そしてこれが数限りない生命を通して起こると、霊は創造に戻り、

創造と一つになる。

それによって創造自体が一層完成され、ますます巨大になる。

 

しかし人間の霊は始めはまったく無知で開墾されていないので、

自分の中に徐々に知識と英知を蓄えて発展していかなければならない。
多くの生命を経れば経るほど、知識が増して賢くなる。

そして霊的な知議と霊的な英知のみが、人間およびその生命と意識を形作る。

それから認識できることは、ある人間の考えと行動が人間的かつ世俗的で

あればあるほど、その人間の霊と意識の発達が遅れているということである。
なぜなら世俗的かつ人間的に考えるとは、人間が霊と意識の発展の

一次的段階にあって、まだ大いに進歩を必要とすることを意味するからである。

 

一般に人類の多くは、役所や政権によって、きわめて意図的にこの段階に

引き止められている。

その理由は一つには役所や宗教自体が啓蒙されていないからであるが、

そうすることによって人間を適当に奴隷化し、抑圧できるからでもある。

この点で最も邪悪な策謀を弄するのは宗教である。

宗教は人間に自信を失わせ、狡猾な策略によって人間をだまして

仮想の神の前に誤った屈従に駆り立てる。

しかし第一に神は創造ではなく、第二に神は人間の霊的生活に対して

影響を及ぼさない。

これは従順で分別のある人間が論理に敏感に反応するなら証明され得る

ことである。

神は人間であるとは、かつてイマスエル(別名イエス・キリスト)さえ言った。

神とは、意識の点で王や皇帝の上に立つ人間に対する表現である。

神はドイツ語に正確に翻訳すれば、英知の王を意味する。

イマヌエルは当時すでにこう言った。

「神は他の誰とも変わらぬ人間である。

しかし創造は神の上に、計り知れないほど高い所に立つ。

なぜなら創造のみが計り知れない秘密だからである。」

だがこれらの言葉はどんな「聖書」にも見出せない。

執筆者によってあっさりと改ざんされて、嘘の内容が書き記されたからである。

というのは、もし真実を書いたならば、教会とその神のイメージは絶対確実に

破壊されたに違いないからだ。

しかし、同じことはキリスト教だけでなく、他の宗教にも当てはまることだ。


人間が正しく考え、知ろうと欲するならば、唯一創造のみを最大の力
として承認し、もしそうする必要があるなら、創造のみに祈るべきである。

もっとも創造はその一切の被造物に対して祈りや崇拝やそれに類する行為を

求めはしないのだが。

創造は、人間の概念では本来、神と呼ばれるべき力である。

なぜならば神は人間の意識では創造を体現するべきものだからである。


突然今後は神ではなく創造に「祈る」ことになったら、人間にとって違和感が

あるのは言うまでもない。

しかし敢えてこれを試みることを勧める。

そうすると突然、自分の祈りが変わり始め、驚くべき安らぎに包まれるという

奇妙な確認をするだろう。

この人間はまた突然自分の祈りが聞き入れられて、人生が善良で幸福な方向に

向かうことも確認する。
しかしそれは驚くには当たらない。
なぜなら創造に語りかければ、自動的に人間の中にある霊も語りかけられるからだ。

何しろ霊は創造の一部分にほかならないのだから。


創造はまことにあらゆる生命の上に立つ最も卓越したものである。

そしてそれのみが、人間から創造として敬われ、尊ばれ、承認されるのに
絶対的に値するものである。

しかし宗教が神に捧げることができるような祈祷や崇拝は、自然に反し誤りである。

このことを知りながら誤った行動をする者は、創造の法則に違反し、意識と霊の完成に

向かう発展の道、すなわち意識的、霊的な知識と創造の英知の道を遮るのである。」

 

引用終わり

 

今回紹介した「心」はいきなり読むには少し難しい本です。

コンタクト記録や宇宙の深遠よりが私のおすすめです。

本の購入はこちらでできます。

http://jp.figu.org/

 

ではまた次回に。

真の自己である霊と、私という人間20

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんどうも。

4連休いかがお過ごしでしょうか。

私は自宅で読書したりYOUTUBE見たりしながらまったりしています。

 

では早速続きをしていきましょう。

今回はきちんと最後まで行く予定です。

いつもより長いですよ。

 

まずはっきりさせることは、ここでいう「神」とはユダヤ教キリスト教イスラム

の神格のことです。

天地創造の神、唯一神、人格神、三位一体の神、全知全能なる神、裁きの神、

ヤーウェ、エホバ、アッラーとか呼ばれる神のことです。

そしてこの神が人間を創りました。

ところが人間は神の意に背いて罪を犯し、神による救済が必要になったと

聖書は教えています。

 

しかし、その存在を信じることはできても論理的には存在しません。

簡単な論理さえ分かれば、とても信じてみようとも思えない代物なのです。

では説明です。

 

【神の不在証明】

 

(前提条件)

神は全知・全能・完全な人格神であるならば。

 

 

神が人間を創ったとはどういうことか?

 

➡全知・全能・完全な神が創ったのだから、人間は神の意図・目的を完璧に

反映した被造物である。

 

[解説]

「人間は神のように全知全能でもなければ完全でもありません。

むしろ人間は物理的・物質的に制約・制限を受けた存在です。

無知であり、欲望に弱く、過ちを犯し、悪に染まります。

肉体も負傷したり病気になったりします。

神のように永遠ではなく寿命があります。

神は完全ですが、人間は不完全です。

しかし神の視点から人間を見るなら、人間は完璧です。

全知・全能・完全な神が創ったのだから、人間は神の意図・目的を完璧に

反映した被造物です。

神の描いた設計図と寸毫の狂いもなく完璧に出来上がっています。

全知・全能・完全な神に間違いや手違い、失敗の類は無いのだから

必然の結果です。」

解説終わり

 

ところが聖書によると、神は不条理な反応をします。

最初に創られた人間であるアダムとエバが蛇(悪魔・サタン)に惑わされ、

神が食べることを禁じた木の実を食べたことから人間の罪と堕落が始まったと

書いてあります。(諸説あり)

神はこの事態を悲しんだとありますが、しっかりと二人をエデンの園から追放し、

安楽な日常を送っていた二人に自給自足の厳しい生活を余儀なくさせるという

罰も与えています。

それから多くの年月が過ぎると、人間は繁殖し人口が増えたのだが、その分

地上には堕落した人間の悪が広がってしまった。

すると神は人間を創ったことを後悔し、人間を全滅させるために大洪水を

起こすことにするが、神に忠実なノアの一家だけは生かされたのだ。

ノアの一家からまた人間の歴史が始まり、世界中に広がっていくことになった。

 

人間の創造からノアの大洪水までのざっくりとした流れはこんな感じです。

私はこの創世記の逸話に触れた時から何かしっくりこない感じ、わずかな

違和感を感じていたのだが、それが何かは説明できないもどかしさが

ずっとあった。

それが何であるか分かったのは最近のことです。

「霊の教え」が大きな助けとなったのは確かです。

 

~矛盾と不条理の絶対神

もう今となっては創世記もただの古い作り話としか思えません。
まともに思考できる人間がわざわざ思考を停止して熱心に信じるような
ものではないのです。
昔の人間が理解できないことを空想で埋めることでできた創作として
読む分にはいいですが、それを真実だと言い張るのはナンセンスです。
ましてや自分の子供だというだけで自我の目覚める前に特定の信仰に
巻き込むことは親の傲慢でしょう。
 
さて、エデンの園から人間を追放するくだりで、神は人間に対し失望を含んだ
悲しみのような感情を表します。
そして人間をそそのかした蛇(悪魔・サタン)には怒りの感情と復讐めいた
言葉を発しています。
さあ、ここで一旦心のストップボタンを押して物語中の神や人間に
感情移入するのを止めて落ち着きましょう。
 
次に上の方にある[解説]をもう一度書きます。
 

「人間は神のように全知全能でもなければ完全でもありません。

むしろ人間は物理的・物質的に制約・制限を受けた存在です。

無知であり、欲望に弱く、過ちを犯し、悪に染まります。

肉体も負傷したり病気になったりします。

神のように永遠ではなく寿命があります。

神は完全ですが、人間は不完全です。

しかし神の視点から人間を見るなら、人間は完璧です。

全知・全能・完全な神が創ったのだから、人間は神の意図・目的を完璧に

反映した被造物です。

神の描いた設計図と寸毫の狂いもなく完璧に出来上がっています。

全知・全能・完全な神に間違いや手違い、失敗の類は無いのだから

必然の結果です。」

 

人間が無知なために悪魔にそそのかされるのも、神との約束を守れないのも、

原因は人間の側ではなく、人間をそのようなものとして創造した神にあります。

何より悪質なのは蛇(悪魔・サタン)も神が創ったことを棚に上げているのです。

つまり神は自分で創ったものに悲しんだり怒ったりしているのです。

馬鹿げた独り相撲、訳わからないヒステリーとしか言いようがありません。

全知・全能・完全なる神、絶対に正しい御方が思い通りにならないことを怒り

悲しむってどういうことですか?

これこそ「神」が全知・全能・完全とは程遠いものである証拠であり、

人間の未熟な思考と空想の産物である証明です。

そしてこの論理に対して、神を正当化するために「自由意志説」を主張する

者もいますが、それこそ恥の上塗りというものです。

その苦し紛れの言い逃れはどのようなものかというと、

「神は人間(と悪魔)に自由意志を与えたが、それを誤って行使したため人間は

罪を追う羽目になった。責任は過ちを犯した人間にあり、神は被害者である。」

という馬鹿げた主張です。

そもそも自由意志をデフォルトで装備させておきながら、想定外の使われ方を

したから遺憾だ、心外だ、と思慮の足りない人間のようなことを言うのです。

全知・全能・完全なる神が人間の自由意志の機能がどこまで及ぶかを

理解していないとはどういうことか?

それこそ神の無知無能っぷりを白日にさらすようなものである。

全知・全能・完全なる神が人間の行為によって傷つくとはコントでしかない。

東京03あたりがやったら大笑いしそうだ。

 

そして何よりこの神格の傲慢で鼻持ちならない点がある。

それは”救いの神、愛の神”を自称するところです。

人間を創っておきながら、その中の一部、神の下僕・奴隷として
犬のように忠実なものは天国へ招き入れるが、そうでない者は容赦なく
地獄の業火に投げ入れるというサイコパス的な人格神であるところです。
もうここまでくると一体何を目的に人間を創ったのか意味不明となる。
もし本当に天国と地獄という差別選別システムがあるのなら、
このサイコパス神は地獄で責め苦を永遠に受けるための人間を
わざわざ創り出していることになる。
どうみても死後地獄行き当確の人間を創り、誕生させ、生存中は
多くの不幸や悲劇を地上に発生させ、死んだら地獄で永遠の罰を
与える神、それのどこが愛なのだろうか?
それをどう勘違いすれば全知・全能・完全なる神と思えるのだろうか?
 
結論
神、宗教の人格神は存在しない。
必然的にそのような神格を崇拝する宗教も虚構である。
神は人間の考えだした空想的存在であるか、
真の造物主である「創造」を騙った人間的生命体である。
神の存在証明を導き出した宗教者・哲学者が存在したが、
彼らが出したのは「創造」の存在証明である。
 
それではまた次回に。

真の自己である霊と、私という人間19

人生と創造の会オリノです。

 

ようやく秋っぽくなってきました。

皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

~神は全知全能ではないし、完全でもない~

前回は靖国問題で寄り道をしてしまいましたので、今回は本題である
「神」批判をさっさとしていきましょう。
「神」を否定するなんて罰当たりで恐ろしいと思う方もいるでしょうが、
本当にシンプルに分かりやすくしていきますので、しばしお付き合いください。
間違ってもニーチェみたいに発狂したりしませんから安心して読んでください。
 
まず、「神」は全知全能で完全な存在とされていますが、少し考えるだけで
それが嘘であることが分かります。
それが理解できれば、逆に何故そんな単純な論理に気づかなかったのかと
拍子抜けすることになります。
 
ではいきますよ。
「神」が全知全能ではなく、完全でもない根拠は

”救いの神であるから”

です。
 
どうですか?
簡単ですよね。
 
 
ですよね~ww
おふざけはここまでにして説明していきますね。
 

~全知・全能・完全って何?~

まずは恒例の言葉の意味を確認していきましょう。
何となく分かったつもりになっていても、個人的な経験や誰かの考えが
いつの間にやら混入していることもありますから確認は大事です。
 
全知とは・・・・・・・すべてを見きわめる知恵。完全な知恵。
 
全能とは・・・・・・・どんなことでもできること。完全無欠な能力。
 
完全とは・・・・・・・ 欠けたところや足りないところがまったくないこと。
           必要な条件がすべてそろっていること。また、そのさま。  
           2 欠点などのないようにすること。

 

 
全知全能とは・・・知らないことは一つもなく、できないことは何もないということ。
           すべてのことを知り尽くし、行える完全無欠の能力のこと。
 
ついでにこれも調べましょう。
 
人格神とは・・・・・人間性をもつ超越的存在。知性・情念・意志を兼備して、
           人間とかかわりをもつとされ、霊と比べて個性がはっきりしている。
 
超越的存在とは・・人智(人間の知性・知恵)を超えた存在。
 
ということです。
なるほど、これだけ凄い存在なら宇宙を創り出すことも可能なんでしょう。
そして「神」は宇宙を創り、最後の仕上げに「人間」を創ったと「創世記」は
伝えています。
 

~「全知・全能・完全なる神」の作品である「人間」~

もうここまで書けば半分ネタバレしたようなものですね。
意外と簡単な論理ですよね。
分かってしまえば、目から鱗が落ちるというか、憑き物が落ちるというか、
誰でも理解できることなのに盲点のようになっていたのです。
 
 
ですよね~www
 
では説明といきたいですが、今日はここまで。
是非ゆっくり考えてください。
そうすることで宗教の悪しき部分を理解し、宗教によって起こる不幸や
悲劇を根絶することが可能になるのですから。
 
ではまた次回に。

真の自己である霊と、私という人間18

 

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんこんにちは。

また来ていただきありがとうございます。

今回は予定通りに「神」、宇宙を創り人間を創ったと言われれている唯一神

聖書の神について考えていきたいと思います。

その前に少し脱線して「靖国問題」について語らせてください。

 

~「靖国問題」は大前提をスルーしている~

今この記事を書いているのが9月半ばなので8月15日は一月前になります。
この時期は毎年必ず、先の戦争のことがメディアで取り上げられます。
満洲国、ハルノート真珠湾奇襲、ガダルカナル、空襲、特攻隊、原爆、無条件降伏、
ソ連参戦、北方領土GHQ慰安婦、徴用工、朝鮮進駐軍、戦後の復興などを
特集するテレビ番組や報道が多くあります。
靖国問題」も必ず出てくる話題の一つです。
遺族会A級戦犯合祀や、中国・韓国のプロパガンダ、左派の反日宣伝に
ついてはこのブログでは触れません。
また英霊を侮辱する意図もまったくありません。
戦死された故人の名誉を傷つけたいとも思いません。
しかし重大な前提はスルーされたままです。
まあ日本のように同調圧力の強い社会では、あえて誰も言わないように
しているのかもしれませんが、私にはそれが奇異に見えてしまいます。
靖国問題」自体が歴史的・政治的・外交的問題となってしまっているのだから、
そんなところに拘る私の方がおかしいと言われればそうなのですが、
私には皆が感情的になって、この問題を素通りしているとしか思えません。
ではその問題とは何かというと、それは「靖国問題」の大前提となっている
宗教的な部分、つまり国のために戦死した兵士の霊は靖国神社に存在
するのか?または彼ら英霊に現代人の哀悼は必要なのか?
本当に英霊は存在するか?そもそも人間は死後に霊として存在するか?
このような疑問はどんどん出てきますが、それを誰かと議論しようということには
なりません。
時々、頭の隅にそのような疑問が浮かんでも、なんとなく言い出しずらいものです。
それはお盆になると先祖の霊が帰ってくるという伝承を否定することより何倍も
勇気が要ることに思えます。
 
これとよく似た感覚が欧米人にとっての「神」ではないでしょうか。
アメリカの大統領は就任時に聖書に手を置いて宣誓をします。
選挙では教会票が大きく影響します。
教会離れが進んでいると言っても、21世紀の現代においてキリスト教は欧米社会に
影響力を保持し続けているのです。
 
靖国神社に祀られている英霊とは、現在ある日本の礎となるべくその命を
捧げた人々の霊であり、今も靖国神社より私たちを見守っている神的存在という
ことになっています。
そしてキリスト教の神はこの宇宙を創り、その統治者・支配者として人間を創った
とされています。
そのような創造行為ができる神は、全知全能の神であり、人間と会話もする
人格神、愛の神、怒りの神、復讐の神でもあります。
 
このブログでは人間の真の自己としての「霊」とは何かということを
「霊の教え」に基づいて説明しようと試みるものです。
その過程で「神」に関する誤り・誤解を正すことは避けて通れないし、
必要なことなのです。
人間の霊は種族・人種・思想・信条・信仰に関わりなく、ただ「創造の法則」
に従って存在し、発達・進化するのです。
そして「創造」こそ物質的領域から霊的領域までに広がるすべての世界と、
そのなかに存在するものすべてを創り出し、またそれらすべてを統合する
宇宙意識・最大最高の霊・超越者・絶対者・包括者・全知全能・愛なのです。
 
ではまた次回に。