sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

真の自己である霊と、私という人間22

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんこんにちは。

今回も「神」批判を続けます。

 

虚無主義」批判のところでも言いましたが、ニヒリズムの信奉者は「虚無」が

何を意味するか深く考えずに人生を論じます。

そして人格神を信仰する人は、全知全能で完全とは何かということを考えずに

架空・空想の神には不可能な救いを求めるのです。

 

前回に書いたことですが、神を信じるとは論理的に知ることではなく、

まず神への感情的共感から始まり、それが依存と隷従へと変節することです。

この世界と人間を創った神こそ最も偉大で最大の力を持つ者であること。

そして神が人間を愛し、何とか救おうとしていること。

その証拠として聖書があり、アダムとエバの逸話から、神は人間が約束を破り

罪を負うことになってしまっても、常に気にかけ救おうとなさっている。

神は人間を救うために一人息子の主イエスを地上に遣わされた。

そのような神は愛の神であると説明されるのです。

と、同時に神に背く者、逆らうものは滅ぼされるということもいろんな逸話を

通じて吹き込まれ、神の恐ろしさも植え付けられます。

つまり神は救いと劫罰という”飴と鞭”で人間に服従を要求するのです。

 

このブログを読んでいる人は、そのような話が全くの出鱈目であって論理的に

破綻していることがお分かりになったでしょうから、そのような神を綺麗さっぱりと

何の心配もなく捨て去ることができます。

しかし、その単純な矛盾、

”全知全能なる者が被造物を差別し虐待するというトンデモ論”

を見抜けないなら厄介なことになります。

 

いくら外見は平静を装い神に感謝の祈りをささげても、自分の信じる神の実在は

誰も証明できないこと。

無数に存在する教派の中で、自分の所属する教派が本当に正しいのかは

誰も証明できないこと。

仮に自分の所属する教派が正しいとしても、自分が神から飴をもらえる人間である

かどうかは誰も証明できないこと。

上のようなことを考えただけで神の機嫌を損ね、自分の信仰心が足りないのではと

不安になること。

自分の所属する教派に不信感を抱くが、神罰が下るのが怖くて脱会できないこと。

奉仕や献金、礼拝や勧誘活動などで私生活が圧迫されること。

などなど、世俗の悩みや苦しみから逃れるために入信してはみたものの、

ふたを開ければ信仰上の悩みや不安や不満が出てくるのです。

もちろん入信してとても満足しているならそれに越したことはありません。

それで自分自身だけでなく、家族や友人や同僚ともよい関係にあるのなら、

それはそれで良いことです。

しかし、入信したことで余計に苦労したり、カルトの被害者になる人も

多く存在します。

 

そもそもの話ですが、冷静に考えれば、現在地球上にいくつの宗教が

あるでしょうか?

数えきれないくらいあります。

同じキリスト教でも教義の違いによって多くの教派・教団が存在します。

ユダヤ教でもイスラム教でも仏教でも教義の異なる教派・宗派が乱立

しています。

もし仮に、それら諸宗教諸派の中に真実・真理を正確に教えるものがあるなら、

それはX教Y派だけであり、その他大勢は間違った宗教ということです。

X教Y派の信者は救われ、それ以外は地獄行きということです。

X教Y派だけが正しいのですから当然です。

そして最悪の場合はすべての宗教が間違っていることも覚悟すべきです。

長い歴史を持つものほど多くの人間が関わることで変化し、本来の教えは

失われたり捻じ曲げられたりしているのですから。

 

何らかの宗教の信仰を持つということは、結局は現世もしくは死後生や

来世での救い・利益・功徳が得られるという思い込みです。

もしそのような救い・利益・功徳が無い宗教が存在するとしたら、

誰が信じ、礼拝するでしょうか?

お金を賭けないパチンコ、純粋競技の競馬と同じです。

いわば宗教とは、将来の利益を目論んだ株式投資です。

自分の好みの神格に人生を賭するギャンブルです。

だからどちらも依存症に陥り、判断能力の低下を起こすのです。

 

 

ではまた次回に