sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

真の自己である霊と、私という人間17

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんこんにちは。

そしてこんばんは。

連日のように猛暑日が続き、コロナの流行もあって大変な夏となっております。

昨年の夏も暑かったですが、それでも今年の夏がこんなことになるなんて、

誰も予想していなかったことです。

気温が35度を超えているのに、ほとんどの人がマスクを着用する日が来ようとはね。

 

さて、前回で「虚無主義ニヒリズム」についての批判は終わりました。

今回からは「神」について考えていきましょう。

またまた、例のごとく、ややこしいことが出てきますので振り返りをしておきましょう。

 

~絶対者=神という思い込みを捨てよう~

なんで「虚無主義ニヒリズム」のことを考えることになったか思い出しましょう。
その発端は「究極の二択」です。
 
(問題) なぜ、この宇宙には目に見えない法則(物理法則や論理法則)が
存在するようになったのか?
 
A 偶然
B 必然
 
なぜ宇宙が発生したのか?と言ってもほぼ同じです。
ここで重要なのは二つの選択肢です。
AでなければBであり、BでなければAになります。
そしてどちらかが正解であり、真実です。
また、宇宙が発生する(ビッグバン)前という特殊な状況を考えると
次のように変換できます。
 
A 偶然
➡全く意識が存在しない「無」から偶発的に発生した。
B 必然
➡霊的・意識的存在である「絶対者」が何らかの目的をもって創出した。
 
もっとシンプルにすれば
 
A 絶対者はいない。
B 絶対者は存在する。
 
となります。
 
前回まではニーチェさんを例にしてAの部分を検討してきたわけです。
次はBを考えるのですが、ここで多くの人が早とちりをしてしまいます。
安直に「絶対者」つまり「神」は存在するのだ!
と考えてしまうのですが、それも仕方ないでしょう。
宇宙を創った「神」といえばキリスト教イスラム教の「神」である「ヤーウェ」とか
「エホバ」とか「アッラー」とかいう名前で呼ばれる存在以外は知らないのですから。
ただ間違えてはいけないのは「絶対者」が存在するとしても、「神」がその「絶対者」
なのかどうかは冷静に検証しなくてはいけません。
天地創造の神」ではあっても、「宇宙創造の神」とは聖書の中にも書かれて
いないのですから、「神=絶対者」の思い込みは捨て去るべきです。
また「絶対者」の存在がキリスト教の正しさを証明するものでもないのです。
 
これの逆をしてしまったのがニーチェさんです。
ニーチェさんはキリスト教の教義・神格を否定し「絶対者」も否定して
自ら虚無の泥沼に飛び込んでしまいました。
彼も安直に「神=絶対者」の思い込みをしてしまったのです。
とか偉そうなことを言えるのも、私が彼より百年後に生まれ「霊の教え」を
知ることができたおかげなのです。
 
すでにお察しのとおり、「神」は「絶対者」、つまり「創造」ではありません。
人間はそのような「仮象」に媚び諂い、崇拝してきましたが、「神」にそんな
価値も力もありません。
そのことを次回から説明していきましょう。
 
ではまた次回に。

真の自己である霊と、私という人間16

人生と創造の会オリノです。

 

どうも皆さんこんにちは。

そしてこんばんは。

また今日もニーチェさんに虚無主義の代表となっていただきまして、

またややこしいことを一緒に考えていこうと思います。

 

~能動的(肯定的)ニヒリズム虚無主義)は幻~

私は時折思うのですが、世の中にニーチェの言葉と思想に共感した人、
感動した人は沢山いるでしょうが、そのような人々のうちで、”虚無の超克”、
”超人”、”永劫回帰”といった概念を真面目に、本当にそれが可能なのかを
考える人はほとんどいないのではないでしょうか。
ニーチェの思想を紹介する入門書的な本やYOUTUBEの動画などでも
必ずこの三つの概念は取り上げられます。
しかし、多くの人にとってこの三つの概念は、例えるなら”刺し身のツマ”
のようなもので、主役であるマグロの飾りであり引き立て役です。
メインの赤身や中トロの箸休めに少しつまむかどうかといったものです。
ツマを食べたくて刺身を注文する人はいません。
ところが脇役のツマを斬新かつ独特の形に盛り付けることで、
他の哲学者に無い強烈な第一印象を与えるのです。
”虚無の超克”、”超人”、”永劫回帰
なんか難しそうだけど、格好いいし凄いことかも、となるわけです。
 
そして、ニーチェの哲学の本質は何かといえば、結局こうなります。
 
”虚無からの全力逃走”
”充実していれば虚無であることを感じなくて済む”
 
そもそもニーチェの哲学は大きな矛盾の上に築かれている。
人間は虚無だと言いながら、人間意識の向上を唱えるのだ。
そこが彼の哲学の魅力なのだが、矛盾でもある。
 
人間は虚無であるとするならば、人間は存在目的も、意味も、価値もない存在だ。
しかも遠大な宇宙の時間の中でほんの一瞬しか存在することができない。
そして皮肉なことに、その儚さを人間自身が一番よく知っている。
そんな哀れで、無力で、悲しい存在でしかない。
しかし彼はそこで前例のない大胆な解釈をする。
絶対者(神)はいないのだから、人間には制約・規制するものはないと
考えたのだ。
また絶対者(神)はいないということは、すべての人間が従うべき真理もなく、
あるのは現実をどう解釈するかだけとしたのだ。
彼はキリスト教という狭い囲いのなかで生まれ、そしてそのなかで死んでいくのが
当たり前だと思っていた羊たちに、その気になるなら柵を飛び越えて野生の羊に
なることだってできると呼びかけたのだ。
あらゆる制約やしがらみを捨て去って、自分の意志で自由に人生を謳歌しても
よいのだ。
ただしそのためには強く賢くならねばならない。
そしてそのためには神の下僕・奴隷という身分を捨て去る勇気と、
自らを虚無であると受容する気概が必要である。
死後の天国という空約束かもしれないものをあてにして、鬱々とした制約の多い
人生を歩むか、それとも、そのようなものは詭弁の類だと見抜き、自分の人生を
力強く悔いなく自由に生きるのか?
彼は後者であるべきだと、熱く鋭い言葉で私たちに語り掛けてくる。
それこそが間違いなく、現代人がニーチェに魅了されるところだろう。
 
彼の言葉に共鳴し、一度きりの人生をより充実させ価値あるものにしようと
する試み、努力を無駄だとか無意味だとか言うことを、私は好ましく思わない。
だがそれを彼は大前提に据えている。
”神(絶対者)は死んだ”
そう言って人間に虚無の足かせを嵌めたのは彼自身だ。
たとえ”超人”のごとく生きることができたとしても、それは”虚無を超克”
したのではなく、それは自らを超人と思い込んだ人間であり、
虚無である人間の無数に存在するバージョンの一つに過ぎない。
当の本人がどう考え、どのように生きようが、根本は何一つ変わっておらず、
無目的・無意味・無価値であることに変わりない。
いくら本人や他人が価値ある人生だと評価しても、虚無であるものは
ただ消え去るのみだ。
ニーチェを信奉する人というのは、虚無を受容すると言いながら、実は
虚無についてまともに考えることもせず、単にニーチェの言葉が持つ”熱量”に
よって気球のように舞い上がっているだけなのだ。
また、虚無であることをよく考えて受容したつもりになっても、実際には
それを恐れ、嫌い、自分からなるべく遠ざけようと躍起になって充実・充足を
求めるようになる。
人生が充実することは喜ばしいことだが、虚無から逃げるため、追いつかれない
ために充実・充足を追求するのはいかがなものか。
結果的にニーチェの信奉者は何かしらの理由をつけて、何かをし続けることになる。
何もせずにただ存在することが恐怖でしかない。
何もせず呆けっとしていたら虚無が忍び寄ってくるからだ。
 
そもそもだが、すべてを虚無だと解釈するなら、そこには虚無しかない。
虚無の世界・宇宙には次のようなものも存在しない。
自由・平和・正義・善・幸福・成功・知恵・教養・愛・誠実・・・・・
人間が大切だと思うものも幻や共同幻想であって、宇宙のどこにも存在しない。
ただ人間だけが頭の中ではあるように考えているが、実際には存在しない。
いくら自分で目的や価値を創り出したと思っても、そんなものは存在しない。
たとえ超人として生きたとしても虚無であることに変わりなく、”末人”という
レッテルを貼って人を見下すのは悪趣味であろう。
 
結論として、虚無主義および唯物論は誤りである。
しかし生命、人間の存在自体と人生そのものに目的・意味・価値が見出されない
かぎり、人間は虚無という底なし沼から抜け出すことはできない。
既存宗教およびその神格にそれを求めても、隷属と幻惑の泥沼に
嵌るだけです。
独善的に感じるだろうが、それは「霊の教え」のみが可能とする。
「霊の教え」だけが「創造」と「霊」の真実を開示するものだからだ。
 
今回は堅くなってしまいましたが内容的にしかたないですね。
「虚無」についてはここまでにして、次は「神」について考えましょう。
 
では次回に。

真の自己である霊と、私という人間15

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんどうも。

前回の内容に大変けしからんところがあると、一部の方からお叱りを

受けてしまいました。(私が勝手にそういう設定にしてますww)

そこで、もう少し突っ込んだ説明をすることで誤解を解いていきたいと思います。

 

まず、問題となった部分を見ていきましょう。

虚無的実存主義唯物論のように、すべては偶然の結果であり、「絶対者」や

「霊」を認めないということはどういうことなのかを簡潔にまとめたものです。

 

①すべては偶然の結果であり、宇宙自体とその小さな一部分である人間も

無目的・無意味・無価値であり、虚無である。

②人間は意識を持ち、他の生物に比べ高度の思考力を持つが、

実態は物質の集合体である。

③人生とは、人間としての形体と意識が維持された時間である。

④如何なる人生も最後は死によって消滅する。

⑤人間の存在自体が無目的・無意味・無価値であり、虚無なのだから、

人生自体、およびその時間内で行われたあらゆる活動とその結果も

無意味・無価値である。

 

⑤の下線部が問題というわけです。

一応念のためにお断りしておきますが、これは私や「霊の教え」が言っているの

ではなくて、人間と人生を虚無的実存主義唯物論的な視点で解釈すると

このようになるということです。

私や「霊の教え」はこれとは真逆の立場です。

 

では下線部の何がニーチェと違うのかというと、

ニーチェの思想は①~⑤を含んでいるのですが、この先に続く重要な部分が

あるのです。

それは”虚無の超克”、”超人”、”永劫回帰”というニーチェならではの思想です。

 

「その重要項目が⑥⑦と続かなければならないのに、なぜ⑤で終わりにしたのだ。」

「それだけでは受動的虚無主義であって、ニーチェの説いた能動的虚無主義

とは言えない。」

といった感じでお叱りを受けたわけです(という設定にしていますww)。

 

おっと、私としたことが重要な言葉の説明を忘れていました。

「虚無」なんて言葉は日常的に使う言葉じゃないですからね。

このブログでの意味はこうです。

 

「虚無」・・・・この世に存在するすべてのものに価値や意味を認めないこと。

 

虚無主義」=ニヒリズムについてもウィキペディアさんに教えてもらいましょう。

 

ニヒリズムという語は、1733年にドイツ人 Friedrich Lebrecht Goetz が De nonismo et nihilismo in theologia caeterisque eruditionis partibus obviot というラテン語の書でラテン語で用いている。連続論に対置された原子論の意味だった。今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときが多い。

心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。

 

A. 何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。

B. すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。

 

これで分かりやすくなりました。

⑤で終わってしまうとAになり、”虚無の超克”、”超人”、”永劫回帰”といったものを

⑥⑦として付け足さないとニーチェの思想であるBとは言えないからです。

 

~虚無は虚無以外になりようがない~

たしかにニーチェは世界に大きな影響を与えた偉大な思想家と言えるだろう。
誰にもできなかったキリスト教の本質を明るみに出し、神の幻想を打ち砕くという
大業を果たしたことは史上初の快挙と言えるだろう。
教会とルサンチマンを晴らしたい弱者の腐敗し爛れた共依存状態を見れば、
キリスト教の教義とは無関係な形而上の事柄も、みな汚物のように思えたろう。
そのような経緯から彼は頭の中から形而上のものを一掃してしまった。
しかしそれは自ら足下の地面を消し去るようなものだ。
絶対者を否定して自ら虚無に沈み、そこから再浮上を図ることがどれだけ
困難なことか、彼はすべて承知の上で自身の運命としたのだろう。
 
しかし、現代に生きる私たちは、彼の言葉に感銘を受けつつも、
その主張を冷静に検証する必要があります。
彼の言うように本当に「虚無」を超克することができるのでしょうか?
「虚無」を超克するとはどういうことでしょうか?
そもそも、人間と宇宙は本当に「虚無」なのでしょうか?
読者の皆様、自分の心の奥深いところに問いかけてみてほしい。
「自分は無意味・無価値・無目的な存在、虚無なのだろうか?」
頭では虚無と割り切っていても、心は違う反応をしませんか?
どうかその感覚を大切にしていただきたい。

次回に続く
 

 

真の自己である霊と、私という人間14

人生と創造の会オリノです。

 

「神は死んだ」という名文句はご存じニーチェの言葉です。

私もこの言葉に同意しますが、少し意味が違います。

キリスト教などの人格神・唯一神天地創造の神は、最初から存在せず、

神を詐称した者の伝承と、それを真に受けた人間の妄想があるだけです。

なぜなら「霊の教え」を学ぶ者は「神」ではなく、「創造」という全知全能遍在な

宇宙意識こそがすべての根源であり、すべては「創造」の被造物であると同時に

「創造」の微細な一部でもあることを知っているからです。

残念ながらニーチェは人間支配の道具である宗教の「神」、つまり「創造」の偽物

を否定するだけでなく、本物の「創造」へと続く真理の道筋さえも放棄し、

否定してしまったのです。

この宇宙を創った絶対者はいなかったことにされたのですから、必然的にこの

宇宙は”唯物宇宙”という解釈しかできなくなりました。

”唯物宇宙”に霊は存在しません。

また、意識は、ある程度発達した脳をもつ生命体だけが持っており、脳=意識です。

脳があるから意識があるので、肉体を持たない意識だけの存在はありえません。

したがって”唯物宇宙”の中に存在する人間や他の生命も”唯物生命”ということです。

ただの物質が生命体として振舞っているだけということです。

何種類もの物質が、ある特定のパターンで結合し続けている間は”生命体”と

呼んでいますが、その結合はごく短時間で無くなり拡散してしまいます。

人間も”唯物宇宙”の中で繰り返されるそのような物質現象といえます。

つまり人間は空に浮かぶ雲や打ち寄せる波と何ら変らない現象ということです。

 

いやいや、こんな話をしていると暗い感じになりますな。

でもこのようなことを深く考えてみることはとても重要です。

なぜなら、「霊」の存在を立証することは現在の科学ではできないのですから、

「霊」が存在しないならば人間にとってどんな不都合があるのか?

ということを考えることで見えてくることが沢山あるからです。

ではお題について考えましょう。

 

お題

偶然発生した”唯物宇宙”、ただ在るだけで無目的・無意味・無価値です。

その中に、これまた偶然に発生した人間には、何らかの目的・意味・価値

はあるのでしょうか?

 

では答えです。

重要なことですから曖昧さを排し、誤解なきように明確に答えましょう。

 

無い。

微塵も無い。

 

こういった考えには同意できないという人もいるでしょう。

そういった人々が反論の根拠とするのが人間の意識と意志、

そして思考力です。

つまり、”唯物宇宙”も人間も偶然の産物なのだから、それ自体は

何の存在意義も持たないもの、虚無です。

しかし、その偶然が人間に意識と思考という奇跡的な能力を与えました。

人間はその能力を使って独自の概念・目的・意味・価値・存在理由を

創り出し、自らと人生を自由意志によって築くことができる。

虚無なものでも存在意義を創りだせる。

という考えがあります。

それは約百年前から始まった実存主義と呼ばれるものです。

ニーチェは虚無的実存主義の始祖ともいえる人です。

サルトルもこの流れに在った人で、この人も有名な一言があります。

「実存は本質に先立つ」

意味は上に書いた通り、オギャーと生まれた人間はその時点では

実存という器・容器であり、その器に何を入れるか、盛り付けるか、

つまりどう生きるかはその人が決めるものということです。

今風に言えば実存は新品のスマホで、本質は入れるアプリ、

自分好みにカスタマイズしたスマホで何をするのかということです。

 

この二人の言葉は、人生をどう生きるのかをテーマにした本などで

目にすることも多いでしょう。

そのおかげで前向きに生きる勇気や力を取り戻した人も沢山いるでしょう。

その点に関しては私もお世話になりました。

強く生きること、有意義に生きるということでは助けになりますが、

残念なことに「死」の前では無力です。

「死」はいつか必ず、本人の意思や健康状態に関係なくやってきて、

生きた間に獲得した「本質」を奪い去り、肉体をただの物質に戻してしまう。

「死」は人間のすべてを消滅させてしまいます。

生まれて一時間の赤子も、百歳の老人も、狂気の犯罪者も、聖人君子も、

誰一人の例外なく、人間はもとの物質に戻され、意識は無に帰する。

雲が青空の中で消えていくように、波が運動エネルギーを失ってただの海水

に戻るように、人間は拡散した物質に還ります。

 

ここで要点を整理しましょう。

虚無的実存主義、または無神論実存主義でも、唯物論でも、

呼び方は色々ありますが、すべての始まりである「創造」と人間の「霊」を

認めない立場にあるのなら、少なくとも以下のことを真実または真実に

最も近い見解としてお持ちのはずです。

 

①すべては偶然の結果であり、宇宙自体とその小さな一部分である人間も

無目的・無意味・無価値であり、虚無である。

②人間は意識を持ち、他の生物に比べ高度の思考力を持つが、

実態は物質の集合体である。

③人生とは、人間としての形体と意識が維持された時間である。

④如何なる人生も最後は死によって消滅する。

人間の存在自体が無目的・無意味・無価値であり、虚無なのだから、

人生自体、およびその時間内で行われたあらゆる活動とその結果も

無意味・無価値である。

 

少し先に進んでしまいましたが、

「すべては偶然の結果、宇宙は偶然によって始まった。」

と発言することは、

「自分は道端に落ちている石ころと同じです。」

と言っているようなものなのです。

もちろんここでいう「偶然」とは意識・知性の関与が無いということです。

 

えっ?・・・ニーチェサルトルも⑤みたいなことは言ってない!?・・・

・・・いい加減なこと書くんじゃないと・・・・

一部の方が強く反発されたようなのでもう少しこの点について説明しましょう。

 

でも今日はここまで。

また次回に。

 

真の自己である霊と、私という人間13

人生と創造の会オリノです。

 

~すべてが偶然の産物なら、生命には意味も価値も無い~

皆さんこんにちは、そしてこんばんは。
今回は再び宇宙についてです。
前回まで最も身近な肉体に焦点を当てて、物質的観点から宇宙は
どのようなものかを再確認してきたわけです。
結果として、すべては一体になっていること、無数の個物や生命は
その一体性の中に組み込まれており相互に影響しあっていることが
確認できました。
この宇宙がビッグバンから始まったということは、すべては一つの点の
中にあったということで、同じ一つのものが無数の派生物に変化したと
言えるでしょう。
この一体性の事実が把握されると、ビッグバンの原因が偶然なのか必然
なのかということが大きな意味を持ってまいります。
では偶然と必然をどう区別するのか?
「霊の教え」ではすべては必然であり、「創造」と呼ばれる宇宙意識が
その原因であると説明しています。
そうすると、偶然はその反対になり、「創造」の不在、あるいは意識・知性の
関与がまったく無いこととなります。
つまり、宇宙が冷えて固まり、生命が発生しない限りは意識や知性は
存在しない宇宙ということです。
物質も生命も存在していないのに意識や知性があってはならないからです。
そうでなければ「霊的・意識的存在」を認めることになり、その時点で偶然ではなく
必然となってしまうからです。
要は唯物論ということです。
 
さて、話を進めましょう。
何故か、不思議なことに、そして偶然に出来上がった物質宇宙です。
これを今後は”唯物宇宙”と呼ぶことにしましょう。
ビッグバンが偶然により起こったのなら、この宇宙は”唯物宇宙”という
ことです。
仮に、本当に、今あるこの宇宙が”唯物宇宙”ならば、その一部である私たちに
どんな不都合があるのか考えてみましょう。
よろしいでしょうか。
皆さんが所属するこの”唯物宇宙”ですが、
 
”唯物宇宙”自体は何らかの目的があって存在しているのでしょうか?
”唯物宇宙”自体が存在することに何らかの意味がありますか?
”唯物宇宙”自体が存在することに何らかの価値がありますか?
 
どうですか?
”いいえ”としか答えようがないですね。
唯一”はい”と答えられるとするなら、それは人間の視点から見た時です。
例えばこんな感じでしょう。
 
「人間という素晴らしい存在を生み出したのだから、この宇宙には
何らかの目的・意味・価値のようなものがあるのではないか。」
 
これに似たようなことを平気で、しかもドヤ顔で言う偶然論者もいます。
しかしこれでは答えになってません。
”唯物宇宙”自体について訊いているのに、人間にとっての”唯物宇宙”
が持つ意味・価値ということにすり替わっています。
また”唯物宇宙”自体が人間を創ろうとしたり、何らかの目的・意味・価値
のようなものがあるならば、それではとても偶然とは言えません。
ビッグバン時に何者かの意識・知性が関与したと言っているようなものです。
何者かの意識・知性が関与したなら、それは必然以外の何者でもありません。
偶然と主張するならこう言うべきです。
 
”唯物宇宙”自体は何の目的・意味・価値を持たない。
”唯物宇宙”自体はただ在るだけだ。
”唯物宇宙”自体は無目的・無意味・無価値だ。
 
何かガッカリですね。
かなり残念な感じです。
”唯物宇宙”ってかなりイタイですね。
でも、宇宙は偶然によってできたというならこういうことです。
いかに私たちが、深く考えもせずに、とんでもないことを口にしていたか、
そしてその時の気分や状況に合わせて、ある時は偶然論者に、違うときは
必然論者にと、節操もなく態度を変えていたのかが分かりますよね。
 
え?・・・だからどうしたって?・・・・・・
 
ふむふむ。
一部の方はご納得いただけなかったようなので、さらなる追い討ちを
かけていきます。
今日の私はSですよ。
 
 
ではもう一つ。
 
偶然発生した”唯物宇宙”、ただ在るだけで無目的・無意味・無価値です。
その中に、これまた偶然に発生した人間には、何らかの目的・意味・価値
はあるのでしょうか?
 
ヒントとしては、全体と一部分の関係です。
 
長くなったので上の質問を次回までのお題にしましょう。
 
ではまた次回に。
 

 

真の自己である霊と、私という人間12

人生と創造の会オリノです。

 

すっかり季節は梅雨本番といった感じですね。

私はもう半世紀以上この地球上で過ごしてきました。

そんな昭和オジサンの子供時代の記憶では、梅雨というのは

シトシトと降る長雨でしたが、最近では情け容赦のない集中豪雨の

季節のようになってしまいました。

先月来、中国の長江流域がかつてない大雨に見舞われ重慶や宜昌など

の都市に水害が起こっており、三峡ダムの決壊も心配されています。

そして残念なことに国内でも大規模な水害がまた起きてしまいました。

全容はまだ分かっていませんが、球磨川の氾濫と土砂災害で犠牲者が

多数でているようです。

ただ被害が少ないことを願うばかりです。

 

~すべてはビッグバンから発生した~

人間の肉体は周囲の環境と一体不可分です。
たとえ意識が自分とその他を区別していても、それは生命体としての
個別性であって、意識を持つ生命が一体性の世界の中でこそ感じることが
できるものなのです。
また自己感覚は生命を維持するために必要な感覚でもあります。
しかし、私たちがどう考えようが事実は変わりません。
寝ていても起きていても、機嫌が好かろうが悪かろうが関係なしに、
肉体はその延長にある世界との間で物質の入れ替えを行い、常に
肉体自身を更新し続けています。
物流が発達した現代では、さらにその範囲は広がっています。
朝食に食べた焼き鮭の切り身はノルウェー産で、昼に食べた牛丼の肉は
オージービーフ、晩御飯のマグロの刺身はインド洋で1年前に捕れたもの、
夜中に食べたバナナはエクアドル産といった具合です。
普通に暮らしているつもりなのに食物は世界中から”お取り寄せ”しています。
既に世界のあちこちから来た物質で私たちの肉体は構成されています。
私の個人的な願望としては、是非ともオホーツク海ベーリング海
タラバガニの身を、肉体を構成する物質としてお迎えして、私の一部と
なって欲しいと思っておりますが中々叶いません。
 
いずれにしても、姿形、生物種は様々なものを食べてはいますが、
すべてのものが地球上の物質によってできています。
あなたの肉体と同じように。
では、地球の物質自体はどこから来ました?
太陽系が出来たからですね。
では、太陽系を構成している物質はどこから来ました?
そんなの天の川銀河だろう。
では、天の川銀河を構成する物質はどこから来ました?
宇宙だろう。
では、宇宙全体を構成する物質はどこから来ましたか?

E=MC²

すべての物質はエネルギーからできたとアインシュタインは言いました。
でも私はその意味がよく分かりません。
では、物質を創ったエネルギーはどこから来ました?
そうです。
ビッグバンです。
今の地球の科学者は約138億年前にそれが起こったと推測していますが、
プレヤーレン/プレヤール人はビリー・マイヤー氏にビッグバンの起きた時期は
約4兆5600億年前だと説明しています。
ついでにプレアディアン/プレアデス星人という呼び名は正しいものではない。
正しくはプレヤーレン/プレヤール人という表記です。
この違いは、情報源が本物か偽物かを見分ける目安にもなります。
コンタクト記録の中に記述されてもいますが、マイヤー氏の名前が知れ渡る
ようになると偽コンタクティーも沢山現れるが、彼らは正確なことを知らないので
プレアディアン/プレアデス星人とコンタクトしていると言う、ことが予告されて
いるからです。
今の世の中には、予告通りの偽物が沢山いますのでご注意ください。
 
さて、話を戻します。
また話はビッグバンに戻ってきました。
前の時は物理法則をはじめとする諸法則が本当にあるのかどうか。
本当にそれがあるのなら起源はビッグバンにあること。
そうならば、ビッグバンが起きたのは偶然なのか必然なのか?
ということを考え、「創造」という宇宙意識なしに必然はありえないことが
理解できたことでしょう。
そして今回は、私たちの肉体を含めた物質的側面から考察してみました。
そこに見いだせたのはすべてが一体性のもとにあるということです。
どんなに離れたものでも、大きさや規模が違っても、切り離すことのできない
関係にあり、意識されないほどの希薄な影響であっても無くすことはできません。
人間は地球の自然環境や重力の影響を受け、また自然環境と地球に影響を
与えます。
地球は太陽や他の惑星の影響を受けています。
太陽系は天の川銀河の質量に引かれ、その一部となって回転しています。
天の川銀河は属する銀河団の動きに同調し、その銀河団は属する超銀河団
と共に動いているのです。
さらには未解明のダークマターダークエネルギーといったものの影響も
あるでしょう。
そのような分からないことだらけであっても、すべては関係しあい、一体である
ことは疑いの余地はないのです。
そもそもが小さな点からすべてが始まったのですから、すべてはひとつなのです。
 
今回はお題にまで行けなかったので、次回に持ち越しです。
 
今回のお題
 

仮に、然が一体性をもつこの宇宙を創ったなら、

どんな不都合があるだろうか?

ではまた次回に。

真の自己である霊と、私という人間11

人生と創造の会オリノです。

 

 

皆さんこんにちは。

夜に見に来ている方にはこんばんは。

 

前回の内容はあまりにも”当たり前”すぎて、わざわざブログ1回分に

する必要があったのか微妙な感じです。

文章にしても10行程度に収まったでしょうし、余計なプリンの写真を

載せたり、ネットで拾った画像を何枚も使ってみました。

分かりやすくしようとしてそれらの画像を使ってはいますが、

説明している内容が誰でも知っていることなのですから不要だったかも。

 

さてさて、そんなこんなで誰でも生きている人間ならば持っている肉体です。

体、身体、五体、体躯とか呼び名も色々あって、言葉としての使い方や意味も

少し異なるでしょうが、ここで意味するのは”物理的に私であるもの”あるいは

”私そのもの”です。

”物理的に私であるもの”があれば必然的に”物理的に私ではないもの”も

あることになります。

”私”と、私の”周りにある世界(外界)”ということですね。

そして現代人のほとんどが肉体を”私そのもの”と認識しています。

このブログのテーマである「霊」とは簡単に言えば肉体の死後も存続する

不滅の意識の部分、肉体を纏い脱ぎ捨てるもの、肉体を出入りするもののことです。

しかし「霊」はいまだに最先端の技術を導入した如何なる検出器を用いても

その存在を発見できていません。

そのために意識も心も脳が創っているという考えが主流であり、常識となっています。

(それは霊の教えから見てもあながち間違いではないのだが)

最近では”私=脳=ニューロンネットワークを行き来する電気信号”という考えから、

コンピューターの中に同じネットワークと信号パターンを作れば、

その人の人格が再現できる=ネットの中で生きられるという考えもあります。

また、死体を凍結保存して、死体の蘇生技術が確立されるのを待っている

人さえいます。

死んでいるのに待っているというのは妙ですが。

「霊」あるいは宗教の説く「神」「天国」「救い」を信じられないなら、当然、人間観も

唯物的にならざるを得ません。

肉体こそ自分自身という考えになるのは当然なのです。

 

だから、敢えて、唯物的に肉体を再検証してみましょう。

 

~肉体=地球表面付近の物質=地球の一部=宇宙の一部~

 

私たちが肉体を何故自分だと思うのか?

まず、私たちは今の体(成長などの変化はしてきたが)から離れたことがない。

(それができるという一部の人を除く)

常にこの体の内側でものを見て、考え、意志を表すために体を使って言葉を

発し、移動し、作業する。

自分の外側とのやり取りはすべて体を通じて行われる。

思念や念力で冷蔵庫を開けて飲み物を手元に運んだり、テレビの電源を入り切り

することさえできません。(一部の例外を除く)

少なくとも誰かに頼むか、ボタンを押すことが必要になり、それは体を使っている。

次に肉体の表面は表皮になっていて、神経の働きで痛み、かゆみ、くすぐったさ、

暑さ、寒さを感じることができます。

しかし、表皮から離れたところにある氷の冷たさや、火の熱さは感じないし、

他人の感覚を想像できても直接感じることはできません。

ですから表皮や体毛の先が自分と外界の境目だと認識するのは当然です。

また、いくらお腹が減ったり喉が渇いても他人の口に食物や水を入れていては

自分は満たされません。

自分の肉体の口に入れて体内に取り込むことで満たされるのです。

だから自分とはこの肉体であり、肉体が自分と思うのは自然なことです。

これは当然の認識であって、当たり前です。

何も悪いことではないのです。

 

しかし、それだけに留まるわけにもいきません。

当たり前の向こう側を見てみなくては。

 

では質問しましょう。

あなたが吸い込んだ空気は、どこまで吸い込まれた時にあなたの一部と

なりますか?

鼻孔ですか?気道ですか?肺胞ですか?

あなたが飲んだ水は、どこまで行った時にあなたの水分になりますか?

口ですか?胃ですか?腸ですか?

あなたが吐いた息とともに排出された二酸化炭素、どの段階であなたの一部で

なくなったのですか?

肺静脈の中?肺?口?

では常に肺の中にある空気はあなたの一部ですか?

抜けたばかりの抜け毛はあなたの一部ですか?

今にも抜けそうな毛はどうですか?

腸内フローラにいる細菌はあなたの一部ですか?

皮膚表面にいる常在菌は?

排泄直前の尿や便はどうですか?

汗腺から出ようとしている汗と滴り落ちた汗ではどうですか?

垢はどの段階であなたではなくなるのですか?

(こんな質問をしていますが、あなたに因縁を付けているのではないので誤解なきよう。)

 

肉体は常に外部と物質のやり取り、出し入れをしているのですから、

明確な境界は存在していないのです。

肉体は外部の環境と一体不可分でもあるのです。

人間の持つ独自の生命体、個体としての認識は必要ですが、

すべては一体であり、一体性の中の個別性として理解するべきです。

この一体性の中でしか人間は存在できないのだから、外部の環境は

肉体の延長上にあるのです。

肉体は自然の一部であり、その法則に準じた形式でのみ存在できるのです。

 

次に、これは昭和世代によく聞かれた言葉だが、”親から貰ったこの体”という

言い回しがあります。

令和の世の中では聞かれなくなったフレーズです。

”親から貰ったこの体”という一節は元は儒教から来ているようですが、

意味は、親から貰った身体に傷を付けない事が孝行の第一歩だということです。

言わんとしている深い意味は分かります。

こうして生きているのも両親が結婚してくれたからであり、生きる機会を

与えてくれたことも感謝しております。

それはそれとして、事実をよく見てみましょう。

私の肉体の始まりは受精卵からです。

父の精子は、父が食物として体内に取り込んだ物質から作られました。

母の卵子も同じことです。

胎児から乳児の間は母が取り込んだ物質からできた栄養や母乳を

取り入れて成長しました。

食物を直接食べるようになって数年も経てば、肉体の細胞は総入れ替え

されています。

いつのまにか体外にあった物質で体は形成されているのです。

肉体は地球の物質循環に組み込まれているのです。

肉体も無常なのです。

肉体=地球の一部=宇宙の一部です。

 

だから、これからはこう言うべきです。

親から与えられた機会、自然と地球と宇宙から借りた

この命と体。

すべての生命は一体性の原則のなかで個別性を発揮する。
そして「霊の教え」を学べば上の言葉は次のように言い換えられる。
 

霊から与えられた生命、創造から借りた肉体。

今日のお題

 
仮に、偶然が一体性をもつこの宇宙を創ったなら、どんな不都合が
あるだろうか?
 
次回に続く。