真の自己である霊と、私という人間17
人生と創造の会オリノです。
皆さんこんにちは。
そしてこんばんは。
連日のように猛暑日が続き、コロナの流行もあって大変な夏となっております。
昨年の夏も暑かったですが、それでも今年の夏がこんなことになるなんて、
誰も予想していなかったことです。
気温が35度を超えているのに、ほとんどの人がマスクを着用する日が来ようとはね。
さて、前回で「虚無主義=ニヒリズム」についての批判は終わりました。
今回からは「神」について考えていきましょう。
またまた、例のごとく、ややこしいことが出てきますので振り返りをしておきましょう。
~絶対者=神という思い込みを捨てよう~
真の自己である霊と、私という人間16
人生と創造の会オリノです。
どうも皆さんこんにちは。
そしてこんばんは。
また今日もニーチェさんに虚無主義の代表となっていただきまして、
またややこしいことを一緒に考えていこうと思います。
~能動的(肯定的)ニヒリズム(虚無主義)は幻~
真の自己である霊と、私という人間15
人生と創造の会オリノです。
皆さんどうも。
前回の内容に大変けしからんところがあると、一部の方からお叱りを
受けてしまいました。(私が勝手にそういう設定にしてますww)
そこで、もう少し突っ込んだ説明をすることで誤解を解いていきたいと思います。
まず、問題となった部分を見ていきましょう。
虚無的実存主義や唯物論のように、すべては偶然の結果であり、「絶対者」や
「霊」を認めないということはどういうことなのかを簡潔にまとめたものです。
①すべては偶然の結果であり、宇宙自体とその小さな一部分である人間も
無目的・無意味・無価値であり、虚無である。
②人間は意識を持ち、他の生物に比べ高度の思考力を持つが、
実態は物質の集合体である。
③人生とは、人間としての形体と意識が維持された時間である。
④如何なる人生も最後は死によって消滅する。
⑤人間の存在自体が無目的・無意味・無価値であり、虚無なのだから、
人生自体、およびその時間内で行われたあらゆる活動とその結果も
無意味・無価値である。
⑤の下線部が問題というわけです。
一応念のためにお断りしておきますが、これは私や「霊の教え」が言っているの
ではなくて、人間と人生を虚無的実存主義や唯物論的な視点で解釈すると
このようになるということです。
私や「霊の教え」はこれとは真逆の立場です。
では下線部の何がニーチェと違うのかというと、
ニーチェの思想は①~⑤を含んでいるのですが、この先に続く重要な部分が
あるのです。
それは”虚無の超克”、”超人”、”永劫回帰”というニーチェならではの思想です。
「その重要項目が⑥⑦と続かなければならないのに、なぜ⑤で終わりにしたのだ。」
「それだけでは受動的虚無主義であって、ニーチェの説いた能動的虚無主義
とは言えない。」
といった感じでお叱りを受けたわけです(という設定にしていますww)。
おっと、私としたことが重要な言葉の説明を忘れていました。
「虚無」なんて言葉は日常的に使う言葉じゃないですからね。
このブログでの意味はこうです。
「虚無」・・・・この世に存在するすべてのものに価値や意味を認めないこと。
「虚無主義」=ニヒリズムについてもウィキペディアさんに教えてもらいましょう。
ニヒリズムという語は、1733年にドイツ人 Friedrich Lebrecht Goetz が De nonismo et nihilismo in theologia caeterisque eruditionis partibus obviot というラテン語の書でラテン語で用いている。連続論に対置された原子論の意味だった。今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときが多い。
心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。
A. 何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
B. すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。
これで分かりやすくなりました。
⑤で終わってしまうとAになり、”虚無の超克”、”超人”、”永劫回帰”といったものを
⑥⑦として付け足さないとニーチェの思想であるBとは言えないからです。
~虚無は虚無以外になりようがない~
次回に続く
真の自己である霊と、私という人間14
人生と創造の会オリノです。
「神は死んだ」という名文句はご存じニーチェの言葉です。
私もこの言葉に同意しますが、少し意味が違います。
キリスト教などの人格神・唯一神・天地創造の神は、最初から存在せず、
神を詐称した者の伝承と、それを真に受けた人間の妄想があるだけです。
なぜなら「霊の教え」を学ぶ者は「神」ではなく、「創造」という全知全能遍在な
宇宙意識こそがすべての根源であり、すべては「創造」の被造物であると同時に
「創造」の微細な一部でもあることを知っているからです。
残念ながらニーチェは人間支配の道具である宗教の「神」、つまり「創造」の偽物
を否定するだけでなく、本物の「創造」へと続く真理の道筋さえも放棄し、
否定してしまったのです。
この宇宙を創った絶対者はいなかったことにされたのですから、必然的にこの
宇宙は”唯物宇宙”という解釈しかできなくなりました。
”唯物宇宙”に霊は存在しません。
また、意識は、ある程度発達した脳をもつ生命体だけが持っており、脳=意識です。
脳があるから意識があるので、肉体を持たない意識だけの存在はありえません。
したがって”唯物宇宙”の中に存在する人間や他の生命も”唯物生命”ということです。
ただの物質が生命体として振舞っているだけということです。
何種類もの物質が、ある特定のパターンで結合し続けている間は”生命体”と
呼んでいますが、その結合はごく短時間で無くなり拡散してしまいます。
人間も”唯物宇宙”の中で繰り返されるそのような物質現象といえます。
つまり人間は空に浮かぶ雲や打ち寄せる波と何ら変らない現象ということです。
いやいや、こんな話をしていると暗い感じになりますな。
でもこのようなことを深く考えてみることはとても重要です。
なぜなら、「霊」の存在を立証することは現在の科学ではできないのですから、
「霊」が存在しないならば人間にとってどんな不都合があるのか?
ということを考えることで見えてくることが沢山あるからです。
ではお題について考えましょう。
お題
偶然発生した”唯物宇宙”、ただ在るだけで無目的・無意味・無価値です。
その中に、これまた偶然に発生した人間には、何らかの目的・意味・価値
はあるのでしょうか?
では答えです。
重要なことですから曖昧さを排し、誤解なきように明確に答えましょう。
無い。
微塵も無い。
こういった考えには同意できないという人もいるでしょう。
そういった人々が反論の根拠とするのが人間の意識と意志、
そして思考力です。
つまり、”唯物宇宙”も人間も偶然の産物なのだから、それ自体は
何の存在意義も持たないもの、虚無です。
しかし、その偶然が人間に意識と思考という奇跡的な能力を与えました。
人間はその能力を使って独自の概念・目的・意味・価値・存在理由を
創り出し、自らと人生を自由意志によって築くことができる。
虚無なものでも存在意義を創りだせる。
という考えがあります。
それは約百年前から始まった実存主義と呼ばれるものです。
サルトルもこの流れに在った人で、この人も有名な一言があります。
「実存は本質に先立つ」
意味は上に書いた通り、オギャーと生まれた人間はその時点では
実存という器・容器であり、その器に何を入れるか、盛り付けるか、
つまりどう生きるかはその人が決めるものということです。
今風に言えば実存は新品のスマホで、本質は入れるアプリ、
自分好みにカスタマイズしたスマホで何をするのかということです。
この二人の言葉は、人生をどう生きるのかをテーマにした本などで
目にすることも多いでしょう。
そのおかげで前向きに生きる勇気や力を取り戻した人も沢山いるでしょう。
その点に関しては私もお世話になりました。
強く生きること、有意義に生きるということでは助けになりますが、
残念なことに「死」の前では無力です。
「死」はいつか必ず、本人の意思や健康状態に関係なくやってきて、
生きた間に獲得した「本質」を奪い去り、肉体をただの物質に戻してしまう。
「死」は人間のすべてを消滅させてしまいます。
生まれて一時間の赤子も、百歳の老人も、狂気の犯罪者も、聖人君子も、
誰一人の例外なく、人間はもとの物質に戻され、意識は無に帰する。
雲が青空の中で消えていくように、波が運動エネルギーを失ってただの海水
に戻るように、人間は拡散した物質に還ります。
ここで要点を整理しましょう。
呼び方は色々ありますが、すべての始まりである「創造」と人間の「霊」を
認めない立場にあるのなら、少なくとも以下のことを真実または真実に
最も近い見解としてお持ちのはずです。
①すべては偶然の結果であり、宇宙自体とその小さな一部分である人間も
無目的・無意味・無価値であり、虚無である。
②人間は意識を持ち、他の生物に比べ高度の思考力を持つが、
実態は物質の集合体である。
③人生とは、人間としての形体と意識が維持された時間である。
④如何なる人生も最後は死によって消滅する。
⑤人間の存在自体が無目的・無意味・無価値であり、虚無なのだから、
人生自体、およびその時間内で行われたあらゆる活動とその結果も
無意味・無価値である。
少し先に進んでしまいましたが、
「すべては偶然の結果、宇宙は偶然によって始まった。」
と発言することは、
「自分は道端に落ちている石ころと同じです。」
と言っているようなものなのです。
もちろんここでいう「偶然」とは意識・知性の関与が無いということです。
えっ?・・・ニーチェもサルトルも⑤みたいなことは言ってない!?・・・
・・・いい加減なこと書くんじゃないと・・・・
一部の方が強く反発されたようなのでもう少しこの点について説明しましょう。
でも今日はここまで。
また次回に。
真の自己である霊と、私という人間13
人生と創造の会オリノです。
~すべてが偶然の産物なら、生命には意味も価値も無い~
真の自己である霊と、私という人間12
人生と創造の会オリノです。
すっかり季節は梅雨本番といった感じですね。
私はもう半世紀以上この地球上で過ごしてきました。
そんな昭和オジサンの子供時代の記憶では、梅雨というのは
シトシトと降る長雨でしたが、最近では情け容赦のない集中豪雨の
季節のようになってしまいました。
先月来、中国の長江流域がかつてない大雨に見舞われ重慶や宜昌など
の都市に水害が起こっており、三峡ダムの決壊も心配されています。
そして残念なことに国内でも大規模な水害がまた起きてしまいました。
全容はまだ分かっていませんが、球磨川の氾濫と土砂災害で犠牲者が
多数でているようです。
ただ被害が少ないことを願うばかりです。
~すべてはビッグバンから発生した~
E=MC²
仮に、偶然が一体性をもつこの宇宙を創ったなら、
どんな不都合があるだろうか?
真の自己である霊と、私という人間11
人生と創造の会オリノです。
皆さんこんにちは。
夜に見に来ている方にはこんばんは。
前回の内容はあまりにも”当たり前”すぎて、わざわざブログ1回分に
する必要があったのか微妙な感じです。
文章にしても10行程度に収まったでしょうし、余計なプリンの写真を
載せたり、ネットで拾った画像を何枚も使ってみました。
分かりやすくしようとしてそれらの画像を使ってはいますが、
説明している内容が誰でも知っていることなのですから不要だったかも。
さてさて、そんなこんなで誰でも生きている人間ならば持っている肉体です。
体、身体、五体、体躯とか呼び名も色々あって、言葉としての使い方や意味も
少し異なるでしょうが、ここで意味するのは”物理的に私であるもの”あるいは
”私そのもの”です。
”物理的に私であるもの”があれば必然的に”物理的に私ではないもの”も
あることになります。
”私”と、私の”周りにある世界(外界)”ということですね。
そして現代人のほとんどが肉体を”私そのもの”と認識しています。
このブログのテーマである「霊」とは簡単に言えば肉体の死後も存続する
不滅の意識の部分、肉体を纏い脱ぎ捨てるもの、肉体を出入りするもののことです。
しかし「霊」はいまだに最先端の技術を導入した如何なる検出器を用いても
その存在を発見できていません。
そのために意識も心も脳が創っているという考えが主流であり、常識となっています。
(それは霊の教えから見てもあながち間違いではないのだが)
最近では”私=脳=ニューロンネットワークを行き来する電気信号”という考えから、
コンピューターの中に同じネットワークと信号パターンを作れば、
その人の人格が再現できる=ネットの中で生きられるという考えもあります。
また、死体を凍結保存して、死体の蘇生技術が確立されるのを待っている
人さえいます。
死んでいるのに待っているというのは妙ですが。
「霊」あるいは宗教の説く「神」「天国」「救い」を信じられないなら、当然、人間観も
唯物的にならざるを得ません。
肉体こそ自分自身という考えになるのは当然なのです。
だから、敢えて、唯物的に肉体を再検証してみましょう。
~肉体=地球表面付近の物質=地球の一部=宇宙の一部~
私たちが肉体を何故自分だと思うのか?
まず、私たちは今の体(成長などの変化はしてきたが)から離れたことがない。
(それができるという一部の人を除く)
常にこの体の内側でものを見て、考え、意志を表すために体を使って言葉を
発し、移動し、作業する。
自分の外側とのやり取りはすべて体を通じて行われる。
思念や念力で冷蔵庫を開けて飲み物を手元に運んだり、テレビの電源を入り切り
することさえできません。(一部の例外を除く)
少なくとも誰かに頼むか、ボタンを押すことが必要になり、それは体を使っている。
次に肉体の表面は表皮になっていて、神経の働きで痛み、かゆみ、くすぐったさ、
暑さ、寒さを感じることができます。
しかし、表皮から離れたところにある氷の冷たさや、火の熱さは感じないし、
他人の感覚を想像できても直接感じることはできません。
ですから表皮や体毛の先が自分と外界の境目だと認識するのは当然です。
また、いくらお腹が減ったり喉が渇いても他人の口に食物や水を入れていては
自分は満たされません。
自分の肉体の口に入れて体内に取り込むことで満たされるのです。
だから自分とはこの肉体であり、肉体が自分と思うのは自然なことです。
これは当然の認識であって、当たり前です。
何も悪いことではないのです。
しかし、それだけに留まるわけにもいきません。
当たり前の向こう側を見てみなくては。
では質問しましょう。
あなたが吸い込んだ空気は、どこまで吸い込まれた時にあなたの一部と
なりますか?
鼻孔ですか?気道ですか?肺胞ですか?
あなたが飲んだ水は、どこまで行った時にあなたの水分になりますか?
口ですか?胃ですか?腸ですか?
あなたが吐いた息とともに排出された二酸化炭素、どの段階であなたの一部で
なくなったのですか?
肺静脈の中?肺?口?
では常に肺の中にある空気はあなたの一部ですか?
抜けたばかりの抜け毛はあなたの一部ですか?
今にも抜けそうな毛はどうですか?
腸内フローラにいる細菌はあなたの一部ですか?
皮膚表面にいる常在菌は?
排泄直前の尿や便はどうですか?
汗腺から出ようとしている汗と滴り落ちた汗ではどうですか?
垢はどの段階であなたではなくなるのですか?
(こんな質問をしていますが、あなたに因縁を付けているのではないので誤解なきよう。)
肉体は常に外部と物質のやり取り、出し入れをしているのですから、
明確な境界は存在していないのです。
肉体は外部の環境と一体不可分でもあるのです。
人間の持つ独自の生命体、個体としての認識は必要ですが、
すべては一体であり、一体性の中の個別性として理解するべきです。
この一体性の中でしか人間は存在できないのだから、外部の環境は
肉体の延長上にあるのです。
肉体は自然の一部であり、その法則に準じた形式でのみ存在できるのです。
次に、これは昭和世代によく聞かれた言葉だが、”親から貰ったこの体”という
言い回しがあります。
令和の世の中では聞かれなくなったフレーズです。
”親から貰ったこの体”という一節は元は儒教から来ているようですが、
意味は、親から貰った身体に傷を付けない事が孝行の第一歩だということです。
言わんとしている深い意味は分かります。
こうして生きているのも両親が結婚してくれたからであり、生きる機会を
与えてくれたことも感謝しております。
それはそれとして、事実をよく見てみましょう。
私の肉体の始まりは受精卵からです。
父の精子は、父が食物として体内に取り込んだ物質から作られました。
母の卵子も同じことです。
胎児から乳児の間は母が取り込んだ物質からできた栄養や母乳を
取り入れて成長しました。
食物を直接食べるようになって数年も経てば、肉体の細胞は総入れ替え
されています。
いつのまにか体外にあった物質で体は形成されているのです。
肉体は地球の物質循環に組み込まれているのです。
肉体も無常なのです。
肉体=地球の一部=宇宙の一部です。
だから、これからはこう言うべきです。
親から与えられた機会、自然と地球と宇宙から借りた
この命と体。
霊から与えられた生命、創造から借りた肉体。
今日のお題