sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

真の自己である霊と、私という人間14

人生と創造の会オリノです。

 

「神は死んだ」という名文句はご存じニーチェの言葉です。

私もこの言葉に同意しますが、少し意味が違います。

キリスト教などの人格神・唯一神天地創造の神は、最初から存在せず、

神を詐称した者の伝承と、それを真に受けた人間の妄想があるだけです。

なぜなら「霊の教え」を学ぶ者は「神」ではなく、「創造」という全知全能遍在な

宇宙意識こそがすべての根源であり、すべては「創造」の被造物であると同時に

「創造」の微細な一部でもあることを知っているからです。

残念ながらニーチェは人間支配の道具である宗教の「神」、つまり「創造」の偽物

を否定するだけでなく、本物の「創造」へと続く真理の道筋さえも放棄し、

否定してしまったのです。

この宇宙を創った絶対者はいなかったことにされたのですから、必然的にこの

宇宙は”唯物宇宙”という解釈しかできなくなりました。

”唯物宇宙”に霊は存在しません。

また、意識は、ある程度発達した脳をもつ生命体だけが持っており、脳=意識です。

脳があるから意識があるので、肉体を持たない意識だけの存在はありえません。

したがって”唯物宇宙”の中に存在する人間や他の生命も”唯物生命”ということです。

ただの物質が生命体として振舞っているだけということです。

何種類もの物質が、ある特定のパターンで結合し続けている間は”生命体”と

呼んでいますが、その結合はごく短時間で無くなり拡散してしまいます。

人間も”唯物宇宙”の中で繰り返されるそのような物質現象といえます。

つまり人間は空に浮かぶ雲や打ち寄せる波と何ら変らない現象ということです。

 

いやいや、こんな話をしていると暗い感じになりますな。

でもこのようなことを深く考えてみることはとても重要です。

なぜなら、「霊」の存在を立証することは現在の科学ではできないのですから、

「霊」が存在しないならば人間にとってどんな不都合があるのか?

ということを考えることで見えてくることが沢山あるからです。

ではお題について考えましょう。

 

お題

偶然発生した”唯物宇宙”、ただ在るだけで無目的・無意味・無価値です。

その中に、これまた偶然に発生した人間には、何らかの目的・意味・価値

はあるのでしょうか?

 

では答えです。

重要なことですから曖昧さを排し、誤解なきように明確に答えましょう。

 

無い。

微塵も無い。

 

こういった考えには同意できないという人もいるでしょう。

そういった人々が反論の根拠とするのが人間の意識と意志、

そして思考力です。

つまり、”唯物宇宙”も人間も偶然の産物なのだから、それ自体は

何の存在意義も持たないもの、虚無です。

しかし、その偶然が人間に意識と思考という奇跡的な能力を与えました。

人間はその能力を使って独自の概念・目的・意味・価値・存在理由を

創り出し、自らと人生を自由意志によって築くことができる。

虚無なものでも存在意義を創りだせる。

という考えがあります。

それは約百年前から始まった実存主義と呼ばれるものです。

ニーチェは虚無的実存主義の始祖ともいえる人です。

サルトルもこの流れに在った人で、この人も有名な一言があります。

「実存は本質に先立つ」

意味は上に書いた通り、オギャーと生まれた人間はその時点では

実存という器・容器であり、その器に何を入れるか、盛り付けるか、

つまりどう生きるかはその人が決めるものということです。

今風に言えば実存は新品のスマホで、本質は入れるアプリ、

自分好みにカスタマイズしたスマホで何をするのかということです。

 

この二人の言葉は、人生をどう生きるのかをテーマにした本などで

目にすることも多いでしょう。

そのおかげで前向きに生きる勇気や力を取り戻した人も沢山いるでしょう。

その点に関しては私もお世話になりました。

強く生きること、有意義に生きるということでは助けになりますが、

残念なことに「死」の前では無力です。

「死」はいつか必ず、本人の意思や健康状態に関係なくやってきて、

生きた間に獲得した「本質」を奪い去り、肉体をただの物質に戻してしまう。

「死」は人間のすべてを消滅させてしまいます。

生まれて一時間の赤子も、百歳の老人も、狂気の犯罪者も、聖人君子も、

誰一人の例外なく、人間はもとの物質に戻され、意識は無に帰する。

雲が青空の中で消えていくように、波が運動エネルギーを失ってただの海水

に戻るように、人間は拡散した物質に還ります。

 

ここで要点を整理しましょう。

虚無的実存主義、または無神論実存主義でも、唯物論でも、

呼び方は色々ありますが、すべての始まりである「創造」と人間の「霊」を

認めない立場にあるのなら、少なくとも以下のことを真実または真実に

最も近い見解としてお持ちのはずです。

 

①すべては偶然の結果であり、宇宙自体とその小さな一部分である人間も

無目的・無意味・無価値であり、虚無である。

②人間は意識を持ち、他の生物に比べ高度の思考力を持つが、

実態は物質の集合体である。

③人生とは、人間としての形体と意識が維持された時間である。

④如何なる人生も最後は死によって消滅する。

人間の存在自体が無目的・無意味・無価値であり、虚無なのだから、

人生自体、およびその時間内で行われたあらゆる活動とその結果も

無意味・無価値である。

 

少し先に進んでしまいましたが、

「すべては偶然の結果、宇宙は偶然によって始まった。」

と発言することは、

「自分は道端に落ちている石ころと同じです。」

と言っているようなものなのです。

もちろんここでいう「偶然」とは意識・知性の関与が無いということです。

 

えっ?・・・ニーチェサルトルも⑤みたいなことは言ってない!?・・・

・・・いい加減なこと書くんじゃないと・・・・

一部の方が強く反発されたようなのでもう少しこの点について説明しましょう。

 

でも今日はここまで。

また次回に。