sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

真の自己である霊と、私という人間16

人生と創造の会オリノです。

 

どうも皆さんこんにちは。

そしてこんばんは。

また今日もニーチェさんに虚無主義の代表となっていただきまして、

またややこしいことを一緒に考えていこうと思います。

 

~能動的(肯定的)ニヒリズム虚無主義)は幻~

私は時折思うのですが、世の中にニーチェの言葉と思想に共感した人、
感動した人は沢山いるでしょうが、そのような人々のうちで、”虚無の超克”、
”超人”、”永劫回帰”といった概念を真面目に、本当にそれが可能なのかを
考える人はほとんどいないのではないでしょうか。
ニーチェの思想を紹介する入門書的な本やYOUTUBEの動画などでも
必ずこの三つの概念は取り上げられます。
しかし、多くの人にとってこの三つの概念は、例えるなら”刺し身のツマ”
のようなもので、主役であるマグロの飾りであり引き立て役です。
メインの赤身や中トロの箸休めに少しつまむかどうかといったものです。
ツマを食べたくて刺身を注文する人はいません。
ところが脇役のツマを斬新かつ独特の形に盛り付けることで、
他の哲学者に無い強烈な第一印象を与えるのです。
”虚無の超克”、”超人”、”永劫回帰
なんか難しそうだけど、格好いいし凄いことかも、となるわけです。
 
そして、ニーチェの哲学の本質は何かといえば、結局こうなります。
 
”虚無からの全力逃走”
”充実していれば虚無であることを感じなくて済む”
 
そもそもニーチェの哲学は大きな矛盾の上に築かれている。
人間は虚無だと言いながら、人間意識の向上を唱えるのだ。
そこが彼の哲学の魅力なのだが、矛盾でもある。
 
人間は虚無であるとするならば、人間は存在目的も、意味も、価値もない存在だ。
しかも遠大な宇宙の時間の中でほんの一瞬しか存在することができない。
そして皮肉なことに、その儚さを人間自身が一番よく知っている。
そんな哀れで、無力で、悲しい存在でしかない。
しかし彼はそこで前例のない大胆な解釈をする。
絶対者(神)はいないのだから、人間には制約・規制するものはないと
考えたのだ。
また絶対者(神)はいないということは、すべての人間が従うべき真理もなく、
あるのは現実をどう解釈するかだけとしたのだ。
彼はキリスト教という狭い囲いのなかで生まれ、そしてそのなかで死んでいくのが
当たり前だと思っていた羊たちに、その気になるなら柵を飛び越えて野生の羊に
なることだってできると呼びかけたのだ。
あらゆる制約やしがらみを捨て去って、自分の意志で自由に人生を謳歌しても
よいのだ。
ただしそのためには強く賢くならねばならない。
そしてそのためには神の下僕・奴隷という身分を捨て去る勇気と、
自らを虚無であると受容する気概が必要である。
死後の天国という空約束かもしれないものをあてにして、鬱々とした制約の多い
人生を歩むか、それとも、そのようなものは詭弁の類だと見抜き、自分の人生を
力強く悔いなく自由に生きるのか?
彼は後者であるべきだと、熱く鋭い言葉で私たちに語り掛けてくる。
それこそが間違いなく、現代人がニーチェに魅了されるところだろう。
 
彼の言葉に共鳴し、一度きりの人生をより充実させ価値あるものにしようと
する試み、努力を無駄だとか無意味だとか言うことを、私は好ましく思わない。
だがそれを彼は大前提に据えている。
”神(絶対者)は死んだ”
そう言って人間に虚無の足かせを嵌めたのは彼自身だ。
たとえ”超人”のごとく生きることができたとしても、それは”虚無を超克”
したのではなく、それは自らを超人と思い込んだ人間であり、
虚無である人間の無数に存在するバージョンの一つに過ぎない。
当の本人がどう考え、どのように生きようが、根本は何一つ変わっておらず、
無目的・無意味・無価値であることに変わりない。
いくら本人や他人が価値ある人生だと評価しても、虚無であるものは
ただ消え去るのみだ。
ニーチェを信奉する人というのは、虚無を受容すると言いながら、実は
虚無についてまともに考えることもせず、単にニーチェの言葉が持つ”熱量”に
よって気球のように舞い上がっているだけなのだ。
また、虚無であることをよく考えて受容したつもりになっても、実際には
それを恐れ、嫌い、自分からなるべく遠ざけようと躍起になって充実・充足を
求めるようになる。
人生が充実することは喜ばしいことだが、虚無から逃げるため、追いつかれない
ために充実・充足を追求するのはいかがなものか。
結果的にニーチェの信奉者は何かしらの理由をつけて、何かをし続けることになる。
何もせずにただ存在することが恐怖でしかない。
何もせず呆けっとしていたら虚無が忍び寄ってくるからだ。
 
そもそもだが、すべてを虚無だと解釈するなら、そこには虚無しかない。
虚無の世界・宇宙には次のようなものも存在しない。
自由・平和・正義・善・幸福・成功・知恵・教養・愛・誠実・・・・・
人間が大切だと思うものも幻や共同幻想であって、宇宙のどこにも存在しない。
ただ人間だけが頭の中ではあるように考えているが、実際には存在しない。
いくら自分で目的や価値を創り出したと思っても、そんなものは存在しない。
たとえ超人として生きたとしても虚無であることに変わりなく、”末人”という
レッテルを貼って人を見下すのは悪趣味であろう。
 
結論として、虚無主義および唯物論は誤りである。
しかし生命、人間の存在自体と人生そのものに目的・意味・価値が見出されない
かぎり、人間は虚無という底なし沼から抜け出すことはできない。
既存宗教およびその神格にそれを求めても、隷属と幻惑の泥沼に
嵌るだけです。
独善的に感じるだろうが、それは「霊の教え」のみが可能とする。
「霊の教え」だけが「創造」と「霊」の真実を開示するものだからだ。
 
今回は堅くなってしまいましたが内容的にしかたないですね。
「虚無」についてはここまでにして、次は「神」について考えましょう。
 
では次回に。