真の自己である霊と、私という人間15
人生と創造の会オリノです。
皆さんどうも。
前回の内容に大変けしからんところがあると、一部の方からお叱りを
受けてしまいました。(私が勝手にそういう設定にしてますww)
そこで、もう少し突っ込んだ説明をすることで誤解を解いていきたいと思います。
まず、問題となった部分を見ていきましょう。
虚無的実存主義や唯物論のように、すべては偶然の結果であり、「絶対者」や
「霊」を認めないということはどういうことなのかを簡潔にまとめたものです。
①すべては偶然の結果であり、宇宙自体とその小さな一部分である人間も
無目的・無意味・無価値であり、虚無である。
②人間は意識を持ち、他の生物に比べ高度の思考力を持つが、
実態は物質の集合体である。
③人生とは、人間としての形体と意識が維持された時間である。
④如何なる人生も最後は死によって消滅する。
⑤人間の存在自体が無目的・無意味・無価値であり、虚無なのだから、
人生自体、およびその時間内で行われたあらゆる活動とその結果も
無意味・無価値である。
⑤の下線部が問題というわけです。
一応念のためにお断りしておきますが、これは私や「霊の教え」が言っているの
ではなくて、人間と人生を虚無的実存主義や唯物論的な視点で解釈すると
このようになるということです。
私や「霊の教え」はこれとは真逆の立場です。
では下線部の何がニーチェと違うのかというと、
ニーチェの思想は①~⑤を含んでいるのですが、この先に続く重要な部分が
あるのです。
それは”虚無の超克”、”超人”、”永劫回帰”というニーチェならではの思想です。
「その重要項目が⑥⑦と続かなければならないのに、なぜ⑤で終わりにしたのだ。」
「それだけでは受動的虚無主義であって、ニーチェの説いた能動的虚無主義
とは言えない。」
といった感じでお叱りを受けたわけです(という設定にしていますww)。
おっと、私としたことが重要な言葉の説明を忘れていました。
「虚無」なんて言葉は日常的に使う言葉じゃないですからね。
このブログでの意味はこうです。
「虚無」・・・・この世に存在するすべてのものに価値や意味を認めないこと。
「虚無主義」=ニヒリズムについてもウィキペディアさんに教えてもらいましょう。
ニヒリズムという語は、1733年にドイツ人 Friedrich Lebrecht Goetz が De nonismo et nihilismo in theologia caeterisque eruditionis partibus obviot というラテン語の書でラテン語で用いている。連続論に対置された原子論の意味だった。今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときが多い。
心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。
A. 何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
B. すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。
これで分かりやすくなりました。
⑤で終わってしまうとAになり、”虚無の超克”、”超人”、”永劫回帰”といったものを
⑥⑦として付け足さないとニーチェの思想であるBとは言えないからです。
~虚無は虚無以外になりようがない~
次回に続く