sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

真の自己である霊と、私という人間10

人生と創造の会オリノです。

 

またまた来てくれてありがとうございます。

何の因果かここに来てしまった初めての方は、

袖触れ合うも他生の縁ということで、よろしかったらこの章のはじめから

読んでいただけると分かりやすいと思います。

現在このブログでは”人間の霊とは何か?”ということを非常に遠回りをしながら

ゆっくりと丁寧に説明しようという試みの真っ最中なのです。

しかも今回で10回目だというのに磁石のことやら宇宙のことやら、

この前は”霊”でなくて”雲”の話をしたりと絶賛大迂回中です。

念のために言っておきますが、決して迷走中ではありません。

計画的迂回中ということをご理解ください。

第一回はちょっと堅めの文章ですが、二回目以降はプリンのような柔らかさで

書いてますので気軽にどうぞ。

https://ameblo.jp/jintosou/entry-12591888099.html

 

最近のマイブーム。

千葉人なら知ってるシャトレーゼのプリンです。

この前あっという間に3個完食の暴挙。

 

食レポまではしませんのでご安心ください。

では前回のお題に行きましょう。

 

~肉体が新しくなるための素材・材料を

人間はどのように調達しているのだろうか?~

今回は簡単でしたね。
素直にそのまま”飲食”でいいでしょう。
私たちは肉体の成長と維持に必要な栄養を飲食物・食物から
得ています。
 
もう一つあげるなら呼吸でしょう。
必要な酸素を取り込み不要な二酸化炭素を排出しています。
 
では次に

~不要となったものを排出するのは

どんなものがあるでしょうか。~

二酸化炭素は上で出てきましたが、呼吸では水分の吸入と排出もされます。
それ以外では何があるでしょう。
 

真っ先に思いつくのはこれですね。

トイレに入るたびに不要になった自分の一部分とサヨナラします。

汗をかくことで水分が体外に出ていきます。

汗をかかなくても表皮から水分は蒸発します。

 

皮膚のターンオーバーです。

角質化した皮膚片は常に剥がれ落ちています。

表面にある皮脂も接触や入浴で無くなります。

 

そのほかにも抜け毛、唾液の飛沫、痰、鼻水、涙、耳垢などがあります。

 

このような入れ替え作業を肉体は自動的に行っています。

この中で意識的にできるのは飲食だけです。

呼吸は短時間なら意識的にできますが、寝ている時はできません。

今日一日は垢を出さずに過ごそうとしても無理です。

 

では今日のお題にいきましょう。

 

~あなたの体と外界とを分けることはできるだろうか?

できるならばそれはどこか?~

 

ではまた次回に。

 

真の自己である霊と、私という人間9

人生と創造の会オリノです。

 

またお会いできて光栄です。

初めての方、初めまして。

 

人間にとって視力はとても重要です。

見ようとする対象に視線を向けた瞬間にその色、その形、輪郭、奥行き、

大きさ、表面の様子といった情報を収集してくれます。

ただし何も見えない真っ暗闇では役に立ちませんが。

そして集めた情報は脳で分析されて、何を見たのか、何に見えるのか

判定されます。

そして視界の最も手前にいつもあるのが肉体です。

一番近くにあるのだからよく見えるかといえばそうではなく、自分の顔や背中は

鏡を使わなければ見ることができません。

人間というのは、物理的にも理性的にも、自分を客観視するのが難しいのですね。

 

上手いことを言えたので本題に行きましょう。

前回は雲を例に挙げて、人間の目が別々のものと捉えているものも、

実は明確な境界で隔てられているものなんて無いこと、さらに細やかな、

あるいは大きな枠組みで見ればすべては関係があり、相互に混じり合い、

ひとつながり、一体性のものとして存在しています。

ここで言いたいのは、何が何でもすべてのものを全体性の視点から

考えろというのではありません。

物事には個別性の側面だけでなく一体性・全体性の側面もあることを

忘れてはいけないということです。

 

ではお題について考えてみましょう。

人間の肉体はどのようなものでしょうか?

 

~肉体はテセウスの船?~

最近、テレビドラマでも同名の作品が放映されていたようですが、
私は見ていませんし、内容もサッパリです。
というか、テレビも最近はあまり見ませんし、ドラマなんて最後に見たのは
「マルモの掟」だったと思います。
当時は小さかった芦田愛菜ちゃんも今では16歳ですか?
どうりで鏡の中の私が老けたわけだ。
ドラマの話はさておき、”テセウスの船”とは何のことかということです。
ウィキペディアからの引用です。

ギリシャ神話

プルタルコスは以下のようなギリシャ伝説を挙げている。

テセウスアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本のがあり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウス英語版[1] の時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

ということですが、要は構造物や造形物の破損や劣化した部品を順次に新しいものと

交換していくと、遂にはオリジナルの部分が無くなってしまう。

そうなった時にその構造物や造形物は元からあったものと同じものと呼んでも

よいのだろうか?という疑問です。

このテセウスという人はギリシャ神話の英雄でテーセウスとも呼ばれます。

彼が乗っていたのは当時としては大型の木造船だったようです。

その船に乗ってクレタ島ミノタウロス退治をしたので保存することになった

ということです。

伝説の英雄が実在した証拠として船を後世に伝えようとしていたのでしょうから、

交換する木材や部品もなるべくオリジナルに近い形で加工されて取り付けられたはずです。

これが現代なら、劣化して外した木材や部品も防腐処理等をされて保管され、

展示する際にはガラスケースに入れて展示したりします。

そして元の本体というか、やむを得ぬ事情によりオリジナルからレプリカになって

しまった船本体も”復元物”として当時の姿を現在も保つことができます。

では現代の私たちには木材を総入れ替えしてしまった”テセウスの船”は

本物と言えるだろうか?それとも偽物とは言わないが、本物とも言えないのだろうか?

議論は分かれるだろうが、”復元物”という丁度いい言葉が落としどころでしょう。

 

さてさて、”テセウスの船”の説明も終わりましたので、次は人間の肉体のほうに

目を向けていきましょう。

わざわざ視線を動かさなくても目の前にありますね、目の前に無いという方は

幽体離脱してますので至急お体にお戻りください。

テセウスの船”では船体を保存するために悪くなった部分を新しい木材で

”修復”を繰り返したのですが、人間の肉体も自動的に修復を行っています。

船の場合は修復ですが、肉体では”新陳代謝”と呼ばれるものです。

 

再びウィキペディアさんに教えてもらいましょう。

 

ウィキペディアから引用

新陳代謝(しんちんたいしゃ)とは、古いものが新しいものに次々と入れ替わることを言う。特に、健康法や美容法において「細胞の新陳代謝」などという使われ方をするが、これはしばしば生化学における代謝の意味ではなく、細胞自体の入れ替わりを意味する表現である。そして、新陳代謝は、生命維持に不可欠なものである。metabolismの訳語として新陳代謝とあてたのは、夏目漱石であると言われる。

「細胞の新陳代謝」の周期は部位によって異なる。

  • 胃腸の細胞は約5日周期
  • 心臓は約22日周期
  • 肌の細胞は約28日周期
  • 筋肉や肝臓などは約2ヶ月間の周期
  • 骨の細胞は約3ヶ月周期

細胞の新陳代謝が正常であれば身体は3ヶ月で新しく生まれ変わる。

ふむふむ、夏目漱石の名前まで出てきましたか。

部位によってには細胞の入れ替わり周期には諸説あるようです。

人間が生きている限りこの働きは続き、肉体の死後もヒゲが伸びたりすること

があるそうです。

また人間は胎児から大人へと成長もするので成長と新陳代謝は密接なものです。

そして常に古い細胞は新しい細胞に入れ替えられてきたということは、

大人ならば体内に子供時代の細胞が残っていることはないのです。

つまり、肉体は一定の時間がたてばすべての細胞が入れ替わっており、

まったく違う肉体になっているのですから”テセウスの船”と同じなのですね。

 

では、今回のお題です。

今日は簡単ですよ。

 

肉体が新しくなるための素材・材料を

人間はどのように調達しているのだろうか?

ではまた次回に。

 

真の自己である霊と、私という人間8

人生と創造の会オリノです。

 

皆さんどうも。

前回は上にある画像、別に珍しくもない空の様子について色々と

考えるという、半ば無茶ぶりのようなお題を出したわけです。

なぜそんなことをするのかというと、画像のような空は特別な気象現象

でもないし、余程ひまを持て余してなければわざわざ見ることもない

日常の一部です。

毎日のように見る光景、見慣れた景色というものは誰でも心当たりが

あるでしょう。

つまり誰でもこのような思考実験に参加できるということです。

 

では、とりあえず雲がどうしてできるのか忘れてしまった、もう一度知りたい

という方は下のリンクを参照してくださいね。

http://www.hitachi.co.jp/kids/kinopon/kinopontown/sky/03/page2.html#:~:text=%E9%9B%B2%E3%81%AF%E3%80%81%E6%B0%B4%E3%82%84%E6%B0%B7,%E9%9B%B2%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%82

 

ということで、雲ができるのは空気中の水分量と気温と気圧が関係しています。

写真を撮った日はそれらの条件によってこのような長閑な空模様となったということです。

 

では、前回の宿題ですが、皆さんのお考えもできればお聞きしたいのは

山々ですが、そうもいきませんので、私がまた勝手に進めさせていただきます。

 

人間の目には、青空を背景に雲Aと雲Bが浮かんでいるのが見えます。

誰かと一緒に空を眺めて、”今日は空が青いね”とか”雲Aは綿菓子みたいで

本当にフカフカしていそうだね”とか”雲Bに念を送って雲消ししてみよう(変な人)”

なんて会話が自然にできるでしょう。

一緒にいる人が気になる異性だったり、前々からもっとお近づきになりたいと思って

いた素敵なあの人なら、会話を始めるきっかけになってくれるでしょう。

しかし、ここから先はそのような状況で言ってしまうと役に立たないばかりか、

あなたが理屈っぽくて面倒くさい人という印象を与えかねないのでご注意ください。

 

まず、雲Aと雲Bについてです。

両方とも晴れた日に見ることができる普通の綿雲であることは間違いありません。

地表付近から湿度の高い空気が暖められて上昇し、上空で冷えることで細かい

霧状の水滴が微細粉塵を核に沢山形成されます。

すると太陽光を吸収したり散乱させるようになり、人間の目には全体的に白く

見えるようになります。

それに対し光が差してくる方向と反対側は暗く見えます。

だから雲の上部は白く見えても下側や底面は灰色っぽくなります。

また雲の端っこは周辺の空気と混じり合うことで少しづつ消えてもいます。

人間の目には見えないですが、下から湿度の高い空気が供給されないと

雲は時間とともに文字通り雲散霧消してしまうのです。

反対に強い上昇気流によって雲の素材となる空気がどんどん上がってくると

積乱雲や雷雲が発生します。

一見、同じ雲がそのままの大きさで風に流されていくようにみえますが、

雲自体は発生と消滅を同時にしながら形や大きさを変えつつ移動もしている

わけです。

 

はいお待たせしました。

また回りくどいと言われますので要点を言います。

普通に、何気なく見れば、青い空に浮かぶ雲Aと雲Bということです。

別にそれが悪いとか考えが浅いなどと批判するつもりも毛頭ありません。

常にこれから言うように考えろ、なんてこともありません。

そんなこと四六時中してたら病気になります。

ただ、少し立ち止まって考えてみると人間が瞬間的に認識する内容と事実は

結構違っているということです。

”青空の中に浮かぶ雲Aと雲B”という認識には付け足すことや訂正すること

がいくつもあるのです。

まず、目に見えない”透明な”空気が意識されていません。

次に、雲AとBが白く見え、背景の空が青いために、人の目には雲AとBが

周囲の透明な空気とは別物のように思えることです。

あたかも明確な輪郭・外形を持つ物体、周囲の透明な空気とはことなるもの

と認識されがちです。

しかし、先ほど触れたように雲は常に周囲の空気と混じり合いながら形や

大きさを変え続けているのですから、人間には輪郭や境界をもつように

見えても、実際は流動的であり明確な輪郭や境界はないのです。

雲と観察者との間に相当の距離があるためにそう見えるだけであって、

近くによれば雲は霧のようなものです。

霧の出た日に、霧と通常の空気との境目を判別できるでしょうか?

霧でも靄(もや)でも霞でもいいですが、その先端・境目を見たという人は

いないでしょう。

雲と周囲の透明な空気は同じであり、雲の部分が少々湿度が高いという

だけです。

雲と透明な空気に境目などなく、同じもの、一体であるという方が正確です。

ですから雲Aと雲Bは別の雲という見方だけでなく、一体でひとつながりの

大気現象の一部と言えるのです。

 

そして上の空画像は地球の大気圏の極々小さな一部を地表から撮った

ものでもあります。

 

地球の表面全体を薄膜上に覆っている大気圏です。

人間の感覚ではとても大きく広く厚く感じますが、地球規模でみれば

薄皮饅頭の皮みたいに薄いものですね。

この巨大な大気の層の中に発生した雲で、大気圏から独立したり分離して

いる雲はありません。

大気圏を形成している空気が雲として見えているだけです。

ヨーロッパの空と日本の空に境目はありません。

在るのは”領空”とか”管制空域”とかいう人間の頭の中にある架空のもの

だけです。

また大気は太陽の活動、海や陸地、自然や生物、そして人間の活動との

間にも切っても切れない関係にあり、相互に入り交じり明確な境界は

見いだせない。

不可分で一体のものを便宜上別々に扱っているにすぎないからだ。

さらに、空をずっと上昇していくと宇宙空間に出ることを現代人は知っている。

大気圏の最も外側、宇宙空間との境目を成すのが外気圏という層です。

実は境目と言えるものではなく、ざっくりとした、大体の目安としてあるものです。

面白いことに、外気圏からは上層大気が宇宙空間へ逃げているそうです。

駄々洩れというほどでもなく、希薄な大気が出ていくだけだけなので

安心してください。

自然がきちんと補填してくれますので。

大気圏全体もただの雲と同じく、明確な境目や輪郭がなく、消えていく部分と

新しく補充される部分があるというのは良くできていますね。

 

いやいや今回は長くなってしまった。

でも次のお題は出さなければ。

 

では

 

今回の雲のように、人間の物質的部分、

つまり肉体について考えてみよう。

 

では次回に。

真の自己である霊と、私という人間7

人生と創造の会オリノです。

 

また来ていただきありがとうございます。

初めての方もありがとうございます。

 

前回は「霊の教え」を理解するための大前提であり、最重要な

概念である「創造」について書きました。

一見、「神」と混同しそうですが、「創造」と「神」はまったく別物です。

どう違うかはまた後日に書きます。

今日初めてこのブログに来られたかたには何のことやらと思われる

でしょうから、この章の1から読んでいただければ理解しやすいでしょう。

ここからどうぞ。

https://ameblo.jp/jintosou/entry-12591888099.html

 

さて、今日は宇宙の始まりから離れまして、日常に戻ります。

 

~空に浮かぶ雲とそれを眺める私~

まあ、私の文章が拙いうえに回りくどいので少しお疲れになった
でしょうから、気分転換に空でも眺めてリフレッシュしましょうか。
 

良く晴れた日の午後、コロナウイルスの感染拡大が嘘のように

長閑な、見慣れた景色がありました。

きれいな青空の下を積雲とか綿雲と呼ばれるフワフワした小さな

雲がゆっくりと流れていきます。

風に流されながら少しづつ形や大きさが変わっていく様子は、

どんな時でも一時も止まることなく、自然法則は機能していることを

教えてくれます。

私が空を全く見ることがない時にも、私からは見えないほど遠くでも、

地球の反対側でも、仕事をしている時も、寝ている時も、そもそも

私が生まれる前から、そして死んだ後にも。

 

空模様に限らず、すべてのものは変化し続けます。

それは真理であり、自然法則もまた真理であり、「創造」の定めた

法則の一つだからです。

ゆえに、すべてのものは変化し続けるが、変化し続けることを定めた

「法則」は微塵も変化することなく機能し続ける。

宇宙の始まる前から終わった後まで。

それもまた真理であり、真理とは変化することのないものだからだ。

そして真理は「創造」が実在する証拠です。

何故なら「創造」こそ真理の源泉だからです。

 

さてさて、例のごとく長い前置きの後はシンキングタイムですよ。

 

お気づきの通り、わざとらしく「雲A」「雲B」と記してありますね。

この写真は私が適当に撮影したものを貼っただけです。

この画像から「雲A」「雲B」、あるいは空全体でもいいので、

何でもいいから考えるだけ考えて、色々な解釈をしてみてください。

 

(例1)「雲A」「雲B」は雨を降らすような雲ではなさそうだ。

(例2)「雲A」より「雲B」のほうが大きそうだ。

 

こんな感じから始めていくと、とんでもない考えに行きつくことが

あるかもしれませんよ。

 

DMJ(ではまた次回に。)

 

真の自己である霊と、私という人間6

人生と創造の会オリノです。

 

~知性は意識(創造)に備わった能力~

「すべては偶然である。」
なんとも便利なことばではありませんか。
なぜか分からないが起きたビッグバン、そしてとてつもない時間が流れて
地球が形成され、その表面に私たちが人間として生きている。
これもすべて、ありえないような偶然、大いなる僥倖、奇跡の結果だと
言われています。
前回に書いたように、ここでも「偶然」が幸運に結びつけられているのです。
信じられないような「偶然」が、広大な宇宙や夜空に瞬く星々、雄大な山河、
生命に満ちた自然、そして人間という素晴らしい存在を生み出したという。
そんな話が一昔前に常識化してしまいました。
おかげで人間は虚無の泥沼でもがき苦しむことになったのですが、
それはまた人間の進歩のために必要な課題でもあります。
 
では話を進めていきましょう。
「偶然」の次は「必然」についてです。
意味はこうです。
 
「必然」・・・・必ずそうなるに違いなく、それ以外にはありえないこと。
 
これはまたややこしいことになりそうです。
ただでさえ、”偶然によって物理法則などの諸法則があるようになった”
という決まり文句が出たならそれ以上の質問は禁忌だというのに、
”必然によって物理法則などの諸法則があるようになった”
なんてことを考えるのは”神をも恐れぬ行為”ということです。
宗教者も哲学者も科学者も触れようとしないデリケートゾーンです。
まあ、実際に恐れてないからいいのですが。
 
 
まずは手掛かりを探しましょう。
「必然」は「偶然」の対義語です。
ということなら、「偶然」の時とは反対になればよいのです。
「偶然」の場合を思い出してみましょう。
すべてが行き当たりばったりの混沌です。
ビッグバンの起きるかどうかとタイミングも全くの偶然であり、
ビッグバンが起きたらその時には諸法則もなぜか無数の中から
一つが決まっているということです。
 
ならば「必然」は必然的にその反対です。
必ずそうなるに違いなく、それ以外にはありえないというのですから、
ビッグバンは必ず起きますし、予定通りに起こされます。
しかも起きる前に諸法則も必ず一つが決定しています。
二択だろうが無数からの選択だろうが関係ありません。
必ず決定されているのです。
それ以外にありえないのですから。
そして決められていた通りにビッグバンと一連の現象は進行していきます。
必ずそうなるし、それ以外にありえないからです。
「偶然」が混沌であるのに対して「必然」は秩序ある体系なのです。
思ったよりも簡単でしたね。
 
ですが・・・・何か変です。
”必ずそうなるに違いなく、それ以外にはありえない”
と、何者かが考えています。
何者かが決定しています。
何者かが予定しています。
何者かがその思惟を実体化しようとしています。
でも、ビッグバンの前なのですから物質さえ存在していないのです。
であるにも関わらず、すべての原因となる何者かが存在しなければ
「必然」とは言えない。
原因となる何者かが存在するので”必ずそうなるに違いなく、
それ以外にはありえない”となるのです。
そしてその何者かは肉体を持っていません。
肉体のない意識だけの存在、霊的存在だということです。
その上に人間の想像をはるかに超えた強大な知性とエネルギーを
持っています。
 
どうです?
急に神様を信じたくなりましたか?
聖書を読んでみたくなりました?
 
でも違います。
神は人間の創作物です。
神はすべての原因となった宇宙意識・霊を模倣したものにすぎません。
人間を虜にすることはできても、それ以外は無能です。
「霊の教え」はこの偉大で全知全能遍在な宇宙意識・霊を
 
「創造」 と呼びます。
 
だから「霊の教え」を学ぶ者は必然的に”神をも恐れぬ者””なのです。
まがい物ではなく本物を知っているのですから当然です。
 
創造についての別記事
 
ではまた次回に。
 

 

真の自己である霊と、私という人間5

人生と創造の会オリノです。

 

今日も当ブログにお越しいただきありがとうございます。

初めての方、偶然来られた方、偶然にも今回は「偶然」とは

何を意味するのか、ということを書いていきますので

よろしくお願いします。

 

「偶然」と「必然」という言葉は対義語になっています。

「対義語」とは意味が反対の言葉ですね。

この「偶然」と「必然」という言葉はよく知られてはいますが、

よく使われて、身近に感じるのは「偶然」のほうです。

例えば、あなたがテストや仕事でよい結果を出したときに、

友人や同僚に褒められたら「偶然だよ」とか「偶々だよ」と

謙遜しつつ言いますよね。

これが「必然だよ」とか「必然的な結果だ」と言ってしまうと、

人間関係がギクシャクすることになるので心の中は「必然」でも

「偶然」ということにしておくわけです。

控え目や謙虚さが好まれる世の中なのですから、必然的に「偶然」

の使用頻度は多くなります。

ですので文脈にもよりますが「偶然」という言葉の意味と同時に

うっすらと「謙虚」・「控え目」・「運良く」といった印象も含むようになって

いると感じます。

 

反対に「必然」という言葉を使うと、もちろん文脈に左右されるのですが、

まるで「自分は最初からこうなるのは分かっていた」とか「私は頭が良い」

といった印象を与えかねない。

また「偶然」がそのままよく使われるのに対して「必然」は日常会話では

ほとんど使われることはなく、「避けようのない」・「運命」・「なるようになった」

というふうに言い換えられて使われています。

お堅い文章や討論・演説の中では使われても、普段は使うことがほとんど

ないので、そこから「大袈裟な物言い」や「格好つけ」の時に使う言葉という

イメージがあるのではないだろうか。

 

こうして比較すると「偶然」という言葉には良いイメージが付随している。

「偶然の出会い」・「偶然の出来事」・「偶然の一致」・「偶然の結果」等々。

不思議なこと、思ってもみなかったこと、想定外のことが、良いことや幸運を

連れてくるような感じがするのではないでしょうか。

棚から牡丹餅、瓢箪から駒、ということです。

それに比べ、「必然」は言葉自体になじみが薄いうえに、固く重たい感じです。

例えば「必然の結果」という一文からどんな結果を連想するでしょうか?

周りのみんなが笑顔になるようなハッピーな結果ですか?

そうじゃないですよね。

例を挙げると。

"苦手な数学のテスト勉強をしなかったのだから赤点は必然の結果だ。"

"先の戦争で日本が負けたのは国力の差からして必然の結果だった。"

"相手を侮り慢心していたのだから試合に負けたのは必然の結果だ。"

といった具合に、「偶然」が幸運に結びつきやすいのに対して、「必然」は

厳しい現実や喜ばしくない現実と結び付けられる傾向にある。

私個人は「必然」と「偶然」という言葉が持つ本来の意味とは別に、上に挙げた

ようなイメージ・印象を持っていますが、読者の皆様はどうでしょうか。

 

またまた長い前置きになってしまいました。

特定の言葉に何らかの先入観やイメージを持っていることに気が付けば、

それらが本来の意味に紛れ込んだり、ニュアンスを変化させたりすることを

防ぐことができます。

そのためにまた回りくどいことをしていたわけです。

では本来の意味を見ていきましょう。

 

「必然」・・・・必ずそうなるに違いなく、それ以外にはありえないこと。

 

「偶然」・・・・他のものとの因果関係がはっきりせず、予期できないような

        仕方で物事が起こること。

 

という意味です。

では究極の二択問題に当てはめてみましょう。

 

問題

ではなぜ「物理法則などの諸法則」が実在することになったか?

 

A必然・・・・なるべくしてなった。

B偶然・・・・偶々そうなった。

 

こうしてみるととてもシンプルな文章ではあります。

しかし理解するのは大変そうです。

果たしてそれが何を意味するのか探っていきましょう。

 

まず直感的に理解できそうなのはB偶然のほうでしょう。

多くの学者も言っていることです。

どんなことを言っているかというと。

まず宇宙は今ある宇宙以外の形態として存在した可能性がある

ということです。

ビッグバンの規模やエネルギーがもっと小さかったり大きかったり、

物質を発生させずに消滅したり、もっと物質の種類や質量が多かったり、

もっと銀河が少なかったり多かったり、という感じに無数のバリエーション

があるはずだ、ということです。

宇宙に無数のバリエーションがあるなら、それらを形成する諸法則も

同じく無数のバリエーションがあるということです。

別の言い方をすれば、重力加速度や熱力学といった諸法則の既定値が

すこしでも違っていたら宇宙は今とは違った姿で人間も存在しなかった

かもしれないということです。

そして偶然にもこの宇宙は”とてもよくできた諸法則”によって制御されて

きたので、多くの天体と生命まで宿すことになったというわけです。

ではどうして”とてもよくできた諸法則”が選ばれたのでしょうか?

いえいえ、選ばれてませんし選んでもいません。

選んだり選ばれたりしたら、それは偶然ではなく必然になってしまいます。

偶然であるなら、作為・選別・決定・因果関係など一切なしに偶発的に

そうなるのです。

つまりビッグバンが起こってみないと、そこにどんな諸法則が働いているかは

分からないということです。

偶然であるということは、因果関係さえ無視され、すべてが行き当たりばったり、

つまり混沌です。

 

今回は少しディープな内容でしたし、長くなったので続きは次回です。

 

 

真の自己である霊と、私という人間4

人生と創造の会オリノです。

 

前回は磁石のことから話を広げて、私たちの日常を実体化させている

物理法則が本当にあるのか?

ということを考えてきました。

普通に物理の法則を学ぶことは多くの人がしてきたことですが、

ではその法則自体が目に見えず質量もないのに本当にあるのか?

ということは哲学的思考が必要になってきます。

さらに物理法則が本当に在るとするなら、私たちの日常の光景は

法則に従って現れた現象ということです。

つまりそれは、目に見え質量をもつものは、目に見えず質量のないものに

従属・支配・統制・制御されているという事実が見えてきます。

ではそれらの物理法則、この宇宙を創り出した理念のようなものは、

いったいいつから在ったのでしょうか?

地球の人間が気づくはるか以前から、遅くともビッグバン開始時には

それら宇宙の法則とでも呼ぶべき諸法則が存在し、機能していたからこそ、

今在る宇宙が形成され、私たちが存在できているのです。

そうならば宇宙の法則とでも呼ぶべき諸法則はどこから、どのように

やってきたのでしょうか?

というのが前回の振り返りです。

 

読者の中には、人間の霊とはなにか?ということを知りたいのに、

なんで宇宙論なんかやっているのか?と思われる方もいるでしょうが、

最初に言ったようになるべく丁寧に説明しようとすると、どうしても遠回りを

しているような感じになってしまいます。

もう少しお付き合いください。

 

~究極的な二者択一(真理への分かれ道)~

ここで問題です。
 
オーストラリアの首都はどっち?
B キャンベラ
 
答えはBキャンベラです。
 
こんなクイズ形式を二択問題といいますね。
回答する側は二つの選択肢から正解を選ぶわけです。
当然どちらかが正解でなくては成立しません。
必ずどちらかが正解だという大前提があります。
けれど、どちらも正解にしてはだめです。
答えがわからなくてもどっちか選べば二分の一で当たるのですから、
答えに自信がないので辞退するという人はいないでしょう。
でもそんなに誠実で謙虚な人なら友達になりたいと思います。
 
しかし、偶にあるのですがクイズを作る側がうっかり者でこんな問題を
作ったらどうでしょう。
 
オーストラリアの首都はどっち?
 
まず、オーストラリアの首都について考えたこともないし、興味もなかったなら、
知識と記憶をたどって答えやヒントになるものがないか頭をグルグルさせたり、気
分や直感で決めるでしょう。
 
次に、オーストラリアの首都はAのシドニーだという思い込みや先入観があるなら、
自信をもってAシドニーと答えることになります。
オーストラリアの話が出ればシドニーという名前も出てきます。
オリンピックを2000年に開催してますし、オペラハウスとかいう物凄くモダンで
有名な建築物があるのですから勘違いしてもおかしくないですね。
Bメルボルンと思い込んでいても同じことです。
 
では、オーストラリアの首都はキャンベラだと知っていたらどうでしょう?
しかも出題者が、こんなの知ってて当たり前だと言わんばかりに、
威厳に満ちたドヤ顔で解答を迫ってきたらどう感じます?
余程の自信家で直情的な人なら、即座にその問題はおかしいと
抗議できるでしょうが、そんな人は滅多にいません。
ほとんどの人は、自分の知識・情報が正確だと思っていても念のため
再確認することになります。
自分はオーストラリアの首都がキャンベラだという知識・情報をもっているが、
それが誤認や勘違いや思い込みではなく、事実と相違ないことを確認します。
しかし、二つの選択肢にキャンベラは無いのでこの二択問題は不成立です。
ではこのような状況に至った原因を推測すると、
 
①自分がまだ思い込みや勘違いをしている。
②相手が間違った知識から問題を作った。
③相手が出題の際に言い間違えや言葉を欠落した。
④相手が最初から冗談や悪ふざけのつもりだった。
⑤自分が気づかぬうちにオーストリアの首都がシドニーメルボルンである
並行世界(パラレルワールド)に移行してしまった。
⑥自分が幻覚・白昼夢を見ている。
といったことが考えられるが、たいがいは①②③で④がわずかに残る感じだろう。
本当はこう言ったのを聞き違えた、もしくは言い違えたかもしれないからだ。
 
オーストラリアの首都はどっち(に近い)?(欠落)
 
オーストアの首都はどっち?(言い間違い・勘違い)
B ウイーン
 
⑤⑥は冗談としては好いが、余程のことがない限り真顔で口外しないほうがいい。
 
いずれにせよ、たかが二択問題でも設問と選択肢の設定をしっかりしないと、
仲間内のクイズ遊びなら笑い話で済みますが、賞金の出るクイズ番組や
入試問題でこんなことがあったら大変です。
BPOの審査を受けたり、訴訟を起こされたり、文部大臣が陳謝することに
なります。
正解することも大事ですが、どう出題するか、どのように問うかも重要です。
 
それでは本題にいきましょう。
私も二択問題を出しましょう。
 
問題 
「物理法則などの諸法則」は実在するか?
 
A実在する
B実在しない
 
Aと思う方は次へ
 
問題
ではなぜ「物理法則などの諸法則」が実在することになったか?
 
A必然
B偶然
 
とてもシンプルな二択ですね。
選択肢もAならばBではなく、AでないならばBである、という
形式になってます。
しかし、シンプルだからと言ってバカにはできません。
なぜならAかBのどちらかが真理だからです。
また、読者な中には「物理法則」ではなくて「宇宙」でよいのでは?
と思われる方もいるでしょうが、それならば「物理法則」が働いて
今ある宇宙ができたという説明になります。
目に見え質量のある物質宇宙より、目に見えず質量のない法則のほうが
上位にあるのですから、「物理法則」はどこから来たのかを問うほうが
一つ上の階層にある問いなのです。
 
ということで「究極の二択」を考えていきましょう。
特にここでいう必然・偶然とは何を意味するのでしょうか。
ではまた次回に。