乗り越えるべき壁・・・カルト宗教・救済教義・盲目的信仰14
人生と創造の会オリノです。
続きです。
オリノ 「創造主についてはこのくらいでよいでしょう。
次は聖書の神がなぜ創造主ではないのかを説明します。
ですが、Bさんの様子が気になります。」
仮想哲学者A「たしかに様子が変だ。さっきは顔を真っ赤にして説教してたのが、
青い顔で目を閉じたまま何か”ごにょごにょ”つぶやいてるな。
おい!和也、大丈夫か?」
仮想宗教者 B「ふう~。・・・・大丈夫です。問題ありません。」
オリノ 「大丈夫ですか?聞きたくないのであればもう止めてもいいですよ。」
仮想宗教者B「いいえ。続けてください。正直に言えば激しく動揺しました。
ですがこんなことで私の信仰、神への愛は動じません。
あなたには悪いが、悪霊が私を試していると思っています。」
仮想哲学者A「ハハハ。大丈夫だそうだ。じゃあ悪魔さん続けてちょうだい。
ついでにたっぷりと試練を与えてやってよ。(笑)」
オリノ 「Aさんは本当に楽しそうですね。」
仮想哲学者A「楽しいというより、興奮してる。
ニーチェが神は死んだと言ったのは正しかったんだ。
ただ創造主まで巻き添えにしたのが拙かったんだな。」
オリノ 「意見が合いますね。」
仮想哲学者A「ハハハハハ。あ~愉快。
では悪魔くん、さっさと神に引導を渡しちゃってよ。」
オリノ 「自分で自分のことをそう言うならまだしも、他人から言われると
釈然としませんが、まあいいでしょう(笑)。
では聖書の神について考えてみましょう。
プロテスタントの教義のように、聖書を字義通りに解釈し、尚且つ神が
創造主と同一の全能者だった場合は次の解釈以外にありません。
【神の計画 神=創造主の場合】
『悪魔の堕落と処罰、人間の堕落と原罪の内部発生による
本来あるべき状態からの転落は、神の意志・計画・既定路線である。
神の計画は最終的に服従する人間とそうでない人間を選別し、
前者を愛すべきものとして救い、愛玩動物のように傍に置き、
後者を不要なものとして地獄に投棄し焼却することである。』
少々辛辣に表現していますが、これが”御心と救い”の正体です。
ただし、これが真実そのものということではありません。
あくまでも神=創造主という前提で聖書のストーリーを解釈すると、
”マッチポンプ、自作自演の救済”もしくは”神による大粛清”という
答えに行き着くしかないということです。
そもそも全能者・絶対者・宇宙意識である者が、わざわざ被造物の
ところに出向いて、簡単に破られる禁止命令を、しかも破られるのを
承知の上で、出すというのは支離滅裂です。
さらに予定通りにことが運んでいるさま、そうなるとわかっていた状況
を見て、怒り悲しむのです。
この人格神特有の人間的感情の発露に、人間は畏れ・親しみ・
騙されます。
神が人間と同じ感覚、感情と思考を持つのなら、あわよくば自分の
前に現れ、良くしてくれるのでは、現れなくても自分の願いを聴いて
救ってくれるかもしれないと考えるのです。
そして何よりも神の怒りの矛先が自分に向けられるのではないかと、
恐れ戦き、忠実な僕を演じるのです。
しかし、この人格神=創造主=全能者ならば、何一つ怒り悲しむ
理由は無いのです。
あり得ないことです。全能者が怒ったというならそれは人間の
勘違い、思い違い以外の何物でもありません。
全能者には怒る理由も、怒ったふりをする必要もないのです。
被造物にその存在を知らしめる必要もないのです。
被造物にわざわざ禁忌を伝えることも不要です。
人間のような間違いや誤り、欠陥や失敗はあり得ません。
神が完全なる者であるなら、人間は神の書いた設計図と仕様書を
寸分の違いも無く実体化したものです。
それは悪魔についても言えることです。
であるなら、それぞれの被造物には最初から存在するべき理由と目的、
担う役割が備わっています。
そしてその通りに存在しています。
それにもかかわらず、聖書の神として伝わる者が実際に存在したなら、
その者は人間的な感覚・感情・知性を持つ有限な被造物です。
とても人間に似た、人間的な知的生命体です。
この存在は、初期人類の知性を大きく上回ってはいますが、
その思考と行動は人間的です。
そして創造主を自称したか、周囲の者がそう呼んだのでしょう。
この存在が初期人類に関する何らかの計画を立てたのだが、
配下の組織内に反乱が起こり、計画がとん挫させられたのを見て、
怒り悲しんでいたのなら、納得できる話です。
次につづく