sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

真の自己である霊と、私という人間11

人生と創造の会オリノです。

 

 

皆さんこんにちは。

夜に見に来ている方にはこんばんは。

 

前回の内容はあまりにも”当たり前”すぎて、わざわざブログ1回分に

する必要があったのか微妙な感じです。

文章にしても10行程度に収まったでしょうし、余計なプリンの写真を

載せたり、ネットで拾った画像を何枚も使ってみました。

分かりやすくしようとしてそれらの画像を使ってはいますが、

説明している内容が誰でも知っていることなのですから不要だったかも。

 

さてさて、そんなこんなで誰でも生きている人間ならば持っている肉体です。

体、身体、五体、体躯とか呼び名も色々あって、言葉としての使い方や意味も

少し異なるでしょうが、ここで意味するのは”物理的に私であるもの”あるいは

”私そのもの”です。

”物理的に私であるもの”があれば必然的に”物理的に私ではないもの”も

あることになります。

”私”と、私の”周りにある世界(外界)”ということですね。

そして現代人のほとんどが肉体を”私そのもの”と認識しています。

このブログのテーマである「霊」とは簡単に言えば肉体の死後も存続する

不滅の意識の部分、肉体を纏い脱ぎ捨てるもの、肉体を出入りするもののことです。

しかし「霊」はいまだに最先端の技術を導入した如何なる検出器を用いても

その存在を発見できていません。

そのために意識も心も脳が創っているという考えが主流であり、常識となっています。

(それは霊の教えから見てもあながち間違いではないのだが)

最近では”私=脳=ニューロンネットワークを行き来する電気信号”という考えから、

コンピューターの中に同じネットワークと信号パターンを作れば、

その人の人格が再現できる=ネットの中で生きられるという考えもあります。

また、死体を凍結保存して、死体の蘇生技術が確立されるのを待っている

人さえいます。

死んでいるのに待っているというのは妙ですが。

「霊」あるいは宗教の説く「神」「天国」「救い」を信じられないなら、当然、人間観も

唯物的にならざるを得ません。

肉体こそ自分自身という考えになるのは当然なのです。

 

だから、敢えて、唯物的に肉体を再検証してみましょう。

 

~肉体=地球表面付近の物質=地球の一部=宇宙の一部~

 

私たちが肉体を何故自分だと思うのか?

まず、私たちは今の体(成長などの変化はしてきたが)から離れたことがない。

(それができるという一部の人を除く)

常にこの体の内側でものを見て、考え、意志を表すために体を使って言葉を

発し、移動し、作業する。

自分の外側とのやり取りはすべて体を通じて行われる。

思念や念力で冷蔵庫を開けて飲み物を手元に運んだり、テレビの電源を入り切り

することさえできません。(一部の例外を除く)

少なくとも誰かに頼むか、ボタンを押すことが必要になり、それは体を使っている。

次に肉体の表面は表皮になっていて、神経の働きで痛み、かゆみ、くすぐったさ、

暑さ、寒さを感じることができます。

しかし、表皮から離れたところにある氷の冷たさや、火の熱さは感じないし、

他人の感覚を想像できても直接感じることはできません。

ですから表皮や体毛の先が自分と外界の境目だと認識するのは当然です。

また、いくらお腹が減ったり喉が渇いても他人の口に食物や水を入れていては

自分は満たされません。

自分の肉体の口に入れて体内に取り込むことで満たされるのです。

だから自分とはこの肉体であり、肉体が自分と思うのは自然なことです。

これは当然の認識であって、当たり前です。

何も悪いことではないのです。

 

しかし、それだけに留まるわけにもいきません。

当たり前の向こう側を見てみなくては。

 

では質問しましょう。

あなたが吸い込んだ空気は、どこまで吸い込まれた時にあなたの一部と

なりますか?

鼻孔ですか?気道ですか?肺胞ですか?

あなたが飲んだ水は、どこまで行った時にあなたの水分になりますか?

口ですか?胃ですか?腸ですか?

あなたが吐いた息とともに排出された二酸化炭素、どの段階であなたの一部で

なくなったのですか?

肺静脈の中?肺?口?

では常に肺の中にある空気はあなたの一部ですか?

抜けたばかりの抜け毛はあなたの一部ですか?

今にも抜けそうな毛はどうですか?

腸内フローラにいる細菌はあなたの一部ですか?

皮膚表面にいる常在菌は?

排泄直前の尿や便はどうですか?

汗腺から出ようとしている汗と滴り落ちた汗ではどうですか?

垢はどの段階であなたではなくなるのですか?

(こんな質問をしていますが、あなたに因縁を付けているのではないので誤解なきよう。)

 

肉体は常に外部と物質のやり取り、出し入れをしているのですから、

明確な境界は存在していないのです。

肉体は外部の環境と一体不可分でもあるのです。

人間の持つ独自の生命体、個体としての認識は必要ですが、

すべては一体であり、一体性の中の個別性として理解するべきです。

この一体性の中でしか人間は存在できないのだから、外部の環境は

肉体の延長上にあるのです。

肉体は自然の一部であり、その法則に準じた形式でのみ存在できるのです。

 

次に、これは昭和世代によく聞かれた言葉だが、”親から貰ったこの体”という

言い回しがあります。

令和の世の中では聞かれなくなったフレーズです。

”親から貰ったこの体”という一節は元は儒教から来ているようですが、

意味は、親から貰った身体に傷を付けない事が孝行の第一歩だということです。

言わんとしている深い意味は分かります。

こうして生きているのも両親が結婚してくれたからであり、生きる機会を

与えてくれたことも感謝しております。

それはそれとして、事実をよく見てみましょう。

私の肉体の始まりは受精卵からです。

父の精子は、父が食物として体内に取り込んだ物質から作られました。

母の卵子も同じことです。

胎児から乳児の間は母が取り込んだ物質からできた栄養や母乳を

取り入れて成長しました。

食物を直接食べるようになって数年も経てば、肉体の細胞は総入れ替え

されています。

いつのまにか体外にあった物質で体は形成されているのです。

肉体は地球の物質循環に組み込まれているのです。

肉体も無常なのです。

肉体=地球の一部=宇宙の一部です。

 

だから、これからはこう言うべきです。

親から与えられた機会、自然と地球と宇宙から借りた

この命と体。

すべての生命は一体性の原則のなかで個別性を発揮する。
そして「霊の教え」を学べば上の言葉は次のように言い換えられる。
 

霊から与えられた生命、創造から借りた肉体。

今日のお題

 
仮に、偶然が一体性をもつこの宇宙を創ったなら、どんな不都合が
あるだろうか?
 
次回に続く。