sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

新しき人間観・人生観・世界観5

人生と創造の会オリノです

 

今から40年くらい前でしょうか。

当時テレビの心霊番組が人気があり、そこで有名になった冝保愛子さんなどの

霊能力者が登場しました。

内容も当時の世相と人間観を反映したもので、祟り、憑依、悪霊、守護霊、

地縛霊、除霊といった言葉が一般にも知られるようになります。

それから10年後くらいになるとニューエイジの流行期に入り、

同じ様に現れたスピリチュアリズムは、一昔前に流行った心霊現象と霊能力者を

時代に合わせてリメイクしたものです。

最も成功した有名なテレビ番組は「オーラの泉」でしょう。

霊能力者の名前を挙げてくださいと言われたら、江原啓之さんと答える人も

多いことでしょう。

当時も今もそうなのですが、ニューエイジスピリチュアリズムの境目は

はっきりとしておりません。

しかし、どちらの功績であったとしても、人間の本質は霊であるという考え、

転生、前世、無条件の愛、ワンネス(一体性)、意識と現実といった概念が

多くの人に受け容れられるようになったのは大変な進歩です。

何よりこれはキリスト教を筆頭にする救済宗教、カルト宗教に囚われる人が

減ってきたことを意味します。

それは喜ばしいことですが、反面、転生と解脱を悪用したオウム真理教

存在したことを忘れてはなりません。

私たちは何らかの価値観、思想、主義なしに生きるのは不可能です。

ある程度の年齢になれば、本人が意識するしないは別に何らかのものを

基準にして日々を生きているのです。

セムヤーセは、その生きる基準、人生の指標にこそ真実・真理を取り入れる

べきと説明します。

霊と創造の真理、霊の教えこそその真理だと説明されていますが、

それを真理として受け容れるかどうかは各人の判断に委ねられます。

たとえ真理中の真理であっても強制されることはないからです。

それも創造が決めた法則だからです。

永遠不滅の真理を認め享受できる者は、真理を求め続けること、

論理的に思考すること、実践を通して検証すること、といった労苦を

厭わない者です。

そのような人にとって霊の教えは何にも代えがたい宝なのです。

 

ではセムヤーセによる説明に戻りましょう。

 

続きです。

 

セムヤーセ)

本当に価値があり、意識と霊の発展に寄与するのは調和のとれた感覚だけです。

それは創造的なるもの、つまり、創造的な働き、創造的な英知、創造の知識と

愛と喜びに根ざしています。

創造的なるものは周囲をぐるりと取り囲む物質的壁面や、人間的生活環境よりも

現実的なのです。

だから人間よ、意識的に常に大きく、建設的でありなさい。

霊、すなわちあらゆる無限の創造的構造の源となるものは、

人間の内奥の本質そのものなのです。

人間の外的な本質は、あらゆる面で制限されています。

なぜなら、それは本質そのものではなく、その外皮、

つまり物質的な肉体または境界にすぎないからです。

それは惑いの元であり、苦難と苦痛の源をなし、認識や意志、献身、自由、

愛、そして幸福の点で制限されているのです。

隣人を単に外面的、物質的に見るならば、この特定の人間の形と姿、

すなわち物質的なものしか見えません。

しかし、同じ人間を意識的で霊的な目で見るならば、自分と同じように

他のすべての人の中にも、たとえ本人が自覚していなくても、

すべてを表明するこの意識が宿っていることが分かります。

そうすると周囲の人間を見る見方が根本的に違ってきます。

そうすれば彼はもはや単に一人の男や女や少女や子供を見るのではなく、

創造的な霊の担い手として隣人を見るようになります。

その霊は自分と自分の実在を自覚し、機会さえ与えられれば誰を通してでも

自分を示したい、と望んでいます。

真理を知る者はこのような知識と認識から隣人を見ます。

隣人の中に創造的なるものを見るからなのです。

彼は少なくとも今、真理を認識する前よりも多くのことを知っています。

これにより、無知とは永遠に変えることのできないものではないことが

実証されます。

真理を受け入れる意志さえあれば、人間はあらゆる無知から解放されます。

人間はあらゆるものから自分を解放でき、また、あらゆるものを人間から

奪うことができますが、奪えないのは創造的な意識、霊、すなわち純粋に

霊的、創造的な領域である内奥の実在だけです。

全財産を奪われ、自分の家から放り出されても、自分自身の内奥にある

霊の王国から追い出されることは決してありません。

だから人間よ、常にこの創造的なるものを意識しなさい。

それがなければ人間は呼吸もできなければ意識的に考えることもできないでしょう。

認識することも、見たり聞いたり経験したりすることもできないでしょう。

だからこそ、いつの世でも偉大な賢者は言うのです。

「人間にとって創造的な霊は、自分の息より身近だ。」と。

この至上の意識から人間は決して逃れることはできません。

遅かれ早かれ、人間はこの創造の現実に帰するからです。

なぜならばそれは生命の中の生命であり、霊の中の霊であり、

意識の中の意識、光の中の光であり、生命全体の中心となる思考力、

すなわち人間のあらゆる思考をはるかに超える実在だからです。

これと比べたら人間の物質的知性によるあらゆる思考の力など、

すべて完全に無意味となるでしょう。

 

続く