sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

新しき人間観・人生観・世界観18

人生と創造の会オリノです。

 

引き続き第18回会見からです。

 

けれども人間が、生命の霊的事物に対して、自分自身に対して、

そして創造に対して悪意ある態度や否定的な態度を取るならば、

彼の内にはおよそ何も生まれません。

もし彼の態度が物質的知性だけに支配されていて、

その想念と感情がそのような形で環境に影響を与えるなら、

通常であれば非常に価値のある大いに好都合な状況でさえも、

彼にとっては不幸と不和の源となります。

その場合、たとえこの人間が良い意図を追求したとしても、

結果はまったく否定的なものとなるでしょう。

けれども霊に生きる人間にとっては、常にすべてが、

内面的成長のためにふさわしい状況となり、

あらゆる形で創造的なものに配慮する絶好の機会となるのです。

真に偉大なのは、自らの内に絶えず高度で気高い霊的思考と

霊的感情とを抱き、維持している人間だけです。

創造的と呼べるのは、常に自らの内に創造的なものを意識して生き、

かつ考える人間だけです。

つまり、物質的知性に優れた人間はまったく創造的ではなく、

霊的には絶対的に無価値だと言えるのです。

たとえば、調停者や宗教の聖人、非常時や災害時または病人の支援者、

とりわけ戦争などで最前線に立ったり、衛生班の仕事をしたりする人に

ついても同じことが言えます。

そのような人間はたいてい冒険心や同情や自己憐憫

さらには物質的知性による誤った想念とそこから生じる感情によって

動かされていて、自らの内に創造的なものの認識をみじんも

持つことはないのです。

彼らは誤った隣人愛を説き、同じく誤った神に関する教義や

卑屈な決まり文句を唱える非現実的な宗教にしょっちゅう

惑わされています。

では、そのような生命体と霊に生きる人間との間の違いは

どこにあるのでしょうか?

普通の人間は一般的に、低次の物質的知性の刺激によって

導かれ支配されます。

一時良い感情を抱いたとしても、それは決して不変なものではなく、

まもなく消滅して、再び低次の刺激に場所を譲ります。

これに対して霊に生きる人間は、どんなに小さな創造的刺激さえも

消失させることは決してなく、それらを把握して無限に拡大させます。

彼の内に低次の刺激が錨を下ろすことはありません。

なぜなら、彼の中にある英知と知識の水はあまりに深いため、

錨をつなぐ低次の短い鎖では水底に届かないからです。

霊に生きる人間は絶えずいついかなる状況にあっても

創造的な刺激の波動領域に居続けようとします。

万一その領域が何らかの影響で危険に瀕したら、

彼は最大限に創造に依拠し、その最高度の波動力によって

否定的なものから身を守ります。

彼は、自らの内で創造の本質が否定的なものに対する

絶対確実な防御を生み出すまで、そうし続けるのです。

 

続く