sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

「人生が辛い」「死にたい」と思う人へ。

人生と創造の会オリノです。

 

私たち人間はいつも漫然と日々を過ごしている。

自己の存在理由や人生の意味を知ろうとするよりも、

他愛もない喜びや安楽を求める方が簡単だし、楽だからだ。

わざわざそのような面倒で堅苦しいと思えることに向き合おうとはしないものだ。

しかし人間として存在している限り、それらから無縁でいることは不可能だ。

いずれは人生の上でそれらと直面せざるを得ないのだが、

それは何らかの問題、困難、苦難を抱え込んでいる時だろう。

今あなたがこの文章をどのような状況で読んでいるかはわからないが、

あなたが自己の存在理由や人生の意味を知りたいと思うなら、

あるいはあなたが自分の生命や人生の価値を無意味に感じているのなら、

これから書いていくことはあなたが自己と人生に対して抱いている

誤った考えや思い込みに気づくヒント・機会になるかもしれない。

特に後者の人、つまり自分と人生に失望し、悲嘆と混乱の真っ只中で、

苦しみばかりの人生を投げだしてしまいたい。

哀れな自分を消し去ってしまいたい。

などと考えて苦しんでいる人、死ぬことに救いを求めている人に対して、

私は少し立ち止まって死についてもっと考えることをお薦めします。

 

人間はいずれ死ぬ。

もっと生きたい、すぐに死にたいと思っても、いずれ死ぬ。

男でも女でも心と体の性が違っても、

子供でも大人でも、日本人でもアメリカ人でも、

有名でも無名でも、健常者でも身障者でも、

勤勉でも怠惰でも、無職でも社長でも、

博識でも無学でも、温厚でも冷淡でも、

信仰を持っていても唯物論者でも、

頑健でも病弱でも、大家族でも天涯孤独でも、

友達が沢山いても、一人もいなくても、

いずれ死ぬのです。

すべての人に一人の例外もなく死はやってきます。

死にかたも無数にあります。

病死、事故死、中毒死、突然死、刑死、自死、他殺、転落死、

圧死、溺死、餓死、戦死、窒息死、失血死、老死、自然死、安楽死など。

そのようなさまざまな成り行きで多くの人が日々死んでいます。

ある者は死にたくなかったが死に、

ある者は死にたくて死に、

ある者は自分が死ぬことを認識する間もなく死ぬのです。

はっきりしていることは、死んだ者は戻ってはこないということだ。

そして当然のことだが、いつかはわからないが自分の番が回ってくるのです。

それは次の瞬間か、一月後か、十年後か、死は必ずやってくる。

つまり生きている者にとって死ぬことほど身近で確実なものはないのだ。

 

だが、この不可避で必然である死というものが一体何なのかを

理解したうえで泰然と死を迎える人間は稀有である。

反対に、考えることもせずに発作的に現実逃避の手段として

自分に死をもたらす人間は後を絶たない。

残念だがそのように死は理解されないまま軽々しく乱用されている。

失敗と苦しみでいっぱいの人生から解放されるために、

リセット、消去するために死に縋り付き、逃げ込もうとするのだ。

耐えがたい苦しみから逃れたい気持ちはよくわかる。

しかしここでちょっと考えてみて欲しい。

もしあなたがそのように考え、死んだとしても、

果たしてあなたの期待するようにことが運ぶだろうか?

あなたは苦しい現実から逃れるために死に救いを求めようとするが、

あなたは苦悩から逃れたいだけで、死が何かを知らない。

実は死があなたの期待するものとまったく違うものであるかもしれないのにだ。

つまり死を弄び、死が何かも知らずに生を放棄することは、

生きている現実以上に苦しく厳しい状況にあなたを導く可能性も秘めている。

そして後戻りのできない最悪の選択かもしれないのです。

生きていたほうが遥かに楽であり、自分次第で変化を起こすことも

可能だったのに・・・と後悔するかもしれないのです。

 

ではこのブログを読んでくれているあなたは死をどのようなものと

お考えだろうか?

真剣に考えたことがどれくらいあるだろうか?

ぼんやりとでも何らかのイメージをお持ちだろうか?

また生きることに疲れて早くその時が来て欲しいだろうか?

ここでひとつ歯に衣を着せぬ物言いをさせてもらいます。

 

「死について考えたことのない者は、

生の価値を考えたことのない者だ。

自分に向き合ったことのない者だ。」

 

そもそも死について考えることは生を考えることです。

生と死は表裏一体、一続きのものです。

死を考察することは生を考察することであり、

必然的にそれは自己の存在と人生の意味について熟考すること

になっていきます。

 

さあ、ようやく前置きが終わりました。

ようやく私からの提案を書かせていただきます。

 

もしあなたが生きるのが辛くて、人生に何の希望も見いだせず、

死ぬことを頭の中で想像するようになっているのなら、

私は次のように提案する。

 

あなたが思い考えている「死」は、極めてあなたに都合の良いものだ。

「死」を自分の都合に合わせて妄想しているに過ぎないのです。

あなたは死ぬことで苦労や苦悩や苦痛から逃れられると思っている。

死ねば自分の命も記憶も意識も消えてしまい、無になると思っている。

永遠の意識喪失状態、永遠の深い睡眠のように想像しているのだろう。

人間とは肉体のことであって、死ねばすべてが終わると考えているのだろう。

そのような考えを「虚無的人間観」と私は呼びます。

「唯物的人間観」もこれとほぼ同じことです。

このような人間観は非常に浅はかで生命を侮蔑するものです。

しかしあなたが人生に嫌気がさし、死を望むなら、

この「人間は肉体だけの存在であり、死んだらすべてが消え去る」という

「虚無的人間観」が真実であると証明するか、内的確信に至るまで

探求することを勧めます。

死にたいと思うなら、せめて「死」とは何か知ってからでも遅くはないし、

その方が何の不安も後悔も無く死ねるからです。

そして「死」とは何なのかがわかれば、自ずと「生命」「人生」の意味も

理解できるようになるのです。

そうして自分とは何なのか、人間とは何なのか、人生とは何なのかが

理解できたときに改めて結論を出せばよいのです。

これこそ正真正銘の真理であり真実であるというものを見つけ出し、

その真理が、「人間存在とその人生に意味も価値も無い」というのなら

何の心配もなく自分を消去すれば良いのです。

 

「でも、そこまでするのは大変だな。」

そう思われるでしょうが、そんなことはありません。

 

死ぬことに比べれば!

 

答えを先に書いておきましょう。

あなたが思っているほど、あなたという存在と生きている人生・現実は、

つまらないものでもくだらないものでもありません。

「虚無的人間観」は完全な誤りです。

逆にあなたという存在は、あなたの思考や想像すら遥かに超えるものです。

「死」の謎は「自分とは何者か」という人間の最大の謎の一部分なのです。

この人間の最大の謎を真剣に知りたいと思うか、どうかは、

あなたが決めることです。