sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

プレアデス/プレヤール人にとっての神1

 


これまで8回に渡って「宇宙の深遠より」と「エノクの預言」より、

地球人の未来についての予告と預言をお伝えしてきました。

 

これらの預言は、地球人類が行状を改めずに進むときには現実になるだろうという、

プレアデス/プレヤール人からの警告である。

この忠告をどう生かすのか、聞く耳を持つのかは私たち地球人次第である。

突如として地球人が賢明になり、創造と霊の真理に目覚めたり、

いきなり私たちの前に地上天国が現れたり、地球が次元上昇して愛の波動に

満たされるなどという荒唐無稽なことは起こらないことを理解すべきだ。

まずは個人が創造と霊の真理を人生の指針として生き始めることが重要だ。

またそれは宗教と神についても言えることであり、奇跡や救いは幻想・妄想である。

特に人格神は有害で悪質なものなのだが、いまだ多くの人が虜になっている。

今の世界の中にあるさまざまな問題は、私たちを憂鬱にし、無力感に襲われる。

だがそれらは人間が原因のものなのだから、人間にしか解決できない。

またそれらは私たちの霊的学び、進化、発達に必要なものであり、

それを無いことにしたり短縮したりはできないのだ。

何より問題は神という雲が、創造の光と熱を遮っていることだ。

いままでもこの件をしつこく書いてきたが、重要なことなのでまたそういたします。

 

プレアデス/プレヤール人にとっての神

「宇宙の深遠より」418P~426P


プレアデス/プレヤール人にとっても、霊の教えの中にも、宇宙および

あらゆる被造物の創造主として機能する人格化された神は存在しない。

神とは、JHWH (イシュヴィシュ)という名称に由来する別の概念である。

この名称は、古代リラ語から古代ヘブライ語に受け継がれたものであり、

発音の難しい九文字の名称JSCHWJSCH (イシュヴィシュ)から来ている。

神またはJHWH (イシュヴィシュ)は創造主でもなければ、創造する機能も持たない。
神とはただ単にこの称号を持った普通の人間にすぎない。

実質的な原始創出、普遍意識ないし本来の普遍的創造力は、唯一、

広大な宇宙のすべての微細物質や粗物質から成る被造物を創り上げた

創造のみが有している。
創造は神に代わるものでなく、想像上の存在としての神を表す概念でなく、

人間的にせよ非人間的にせよその他のあらゆる神々や偶像を表す言葉でもない。
創造は、生成と消滅に対して、宇宙の存在に対して、そして大小を問わず

すべての生命に対して責任を負う。
創造は、宇宙に存在する、人の想像の及ぶ限りのありとあらゆる力の中で

最も強く大きな力である。
創造は、生命の存在と非存在であり、実在するかしないかはそれに支配される。
創造は、最も偉大で巨大な霊的エネルギーの塊であり、光り輝くゾハールである。

それによって実在が可能になり、それは実在を可能にせしめる。

それゆえに創造は、最も純粋な霊形態のエネルギーである。
創造は、まことに、すべての生命の上に立つ最も壮大なものであり、

生命そのものである。

宇宙においてそしてすべての生命において、創造のみが絶対である。
創造は人間が知る限り、または知っていると信じる限り最も完全なもので

あるにもかかわらず、常にとどまることなく自らを完璧へと近づけ

発展させなければならない。

それゆえ、創造は常にとどまることなく、人間的霊体を宿す新霊集合体を創り出す。

この人間霊は、無数の転生を通じて常に進歩発展し完璧に至るという使命を

果たさなければならない。

無数の人生を通じてこれがなされれば、その霊は創造のもとに戻り、

そこで創造と一つになる。

それによって創造そのものはさらに完璧になり、ますます偉大になる。
だが人間霊は最初はまったくの無知であり、白紙のようなものであるから、

少しずつ知識と英知を内部に蓄え発展していかなければならない。

霊は人生を重ねれば重ねるほど知識を深めて賢明になる。

そして霊の知識と霊の英知のみが人間とその生命を形作る。

そこから認識できるのは、考えや行動が人間的で世俗的であればあるほど、

その人間の霊は未発達の段階にあることだ。

なぜなら世俗的で人間的な思考は、その人間が意識の発展において原初の

原始的段階にあることを意味するからだ。

一般的に人類の大部分は、政府や官庁によって、意識的にこの段階に

止められている。

その一つの理由は当局の者たち自身がそれ以上のことを知らないからであり、

またもう一つにはそれを通じて人間を最も好都合な方法で隷属および抑圧

できるからである。

この面で最も悪質な策謀を講じているのは宗教である 。

宗教は人間の自尊心を損なわせ術策と悪巧みによって、想像上の神の前に

恭順を示すように人間をせき立てる。 

だが神はそもそも創造ではなく、また人間の霊的生活にいかなる影響も

及ばすことができない。

意志ある者、思慮ある者には、彼らが論理的一貫性に反応できるなら、

これを証明できる。

イマヌエル(原注:別称イエス·キリスト)自身が言ったように、神は人間である。

神とは、霊的に王や皇帝の上にあり、正確にはJHWH (イシュヴィシュ)と呼ばれる

人間を表す。

JHWHとはドイツ語に訳せば「Weisheitskonig」、すなわち英知の王を意味する。

イマヌエルもすでに当時、「神(JHWH)は他の人たちと同じ人間である。

しかし神の上の計り知れない高みに創造があり、創造のみが計り知れない

秘密なのだ」と言っている。

だがこの言葉がいかなる「聖書」にも見当たらないのは、物書きによって

完全に変造され、ごまかして再現されたためである。

真理が、教会と神のイメージをすべて壊すのを恐れるからだ。

これはキリスト教だけにとどまらず、他の宗教にも当てはまる。

人間が正しく考え知ろうとするなら、ただ一つ創造のみを、 または霊のみを

最大の力として認め賛美するがよい。

実際、人間の概念からすれば創造こそ神と呼ばれるべきなのだ。

なぜなら神という言葉は創造を具現すべきだからだ。
突然、神ではなく創造または霊に祈れと言われても、人間には当然ながら

馴染めないだろう。

だがこの試みをあえてせよと、すべての人に勧めたい。

そうすれば、祈りの形態が変わり始め、底知れぬ安らぎに包まれるという、

独特の確認に至るはずだ。

そしてさらに、祈りが聞き入れられ、人生が好転し、

幸せになったと確認するだろう。
だがそれに何の不思議があろうか。

創造に語りかけるということは自ずから、創造の一部に他ならない人間の霊

(微小な創造霊)に語りかけることになるからだ。

創造は、まことに、すべての生命の上に立つ最も壮大なものである。

ただそれだけで、人間から創造として尊重され敬われ認められるに

十分に値する。

宗教は神への崇拝と尊敬を押しつけるが、それは不自然であり誤っている。

これを知りつつ行う者は、創造の法則に反して行動することになり、

霊的完全性へと至る発展の道、つまり霊の知識と創造の英知へと

至る道を自ら阻止することになる。
創造としての創造は、すべての創造の創造であり、創造そのものである。

そして創造のみが、活気ある根源の、生命と実存在(SEIN)の力の塊である。

創造は言い換えれば、宇宙意識、全霊あるいは全意識、世界意識、生命意識、

万有の力、万有の威力または実存在エネルギーなどとも呼べよう。

続く