sankabito’s blog

ビリー・マイヤー事件の真相、創造と霊の真理について。当ブログは人生と創造の会ブログのコピーです。

ビリー・マイヤー氏が語る「仲介者としての役目」2

 

 

続きをどうぞ。

 

私は学者として天賦の才があるわけでなく、すべての知識と能力と体験を

努 力して手に入れなければならなかった。

そのために当然ながら、一度ならず無知な新参者としてカモになり、

さんざんだまされ、搾り取られ、ばかにされ、利用され、

まったくの間抜け扱いをされた。

だから、どうしてまた私がかくも絶望的にばかで不注意だったのかと、

ずいぶん多くの人から問われた。

私をこっぴどくやっつけた末に私腹を肥やし、陰険にも私をせせら笑うような人々が

言うことに熱心に耳を傾け信じるとは、何ということだと言われたのだ。

また別の人間は、スファートやアスケットなどの良き指導者を得ていながら、

どうしてまたこれほどばかげたことが起こったのかと聞いた。

これに私が答えられるのはただ、私は決して真綿にくるまれて、

人生の否定的なことや邪悪なことから保護されていたわけではない、

ということだ。

彼らの援助はあったものの、当然ながら私は自分の人生の全容にわたって

自分で責任をとる必要があったからだ。

私は自分の人生を自分で生き、人生の経験を自分で積まねばならなかったのだ。

それに、特に多くの困難や苦労の真っ只中にいた頃は、

一体こんな私から誰が何を学ぼうというのかと、

しばしば自問せずにはいられなかった 。

私は、自分の哀れさ加減に弱気になって何度も命を失う瀬戸際までいった人間だ。

お人好しのために大損害を被るような人間から誰が学ぼうというのかと、

何度も自分に問うたのだ。

しかしその度に、この学ぶ道を私はたどらなければならず、

知識と能力と経験を増す道は他にはないことを思い知らされた。

その結果、同僚と呼ぶべき者がいないため、私は孤立した。

そこで新たに湧いてきた疑問は、誰がまたこんな独りぼっちの孤独な人間から

何かを学びたいと思うか、というものだった。

しかもそれは、身の毛のよだつほど手厳しい言葉で世間に向かって真理を

わめいたり書いたりする人間だから、聞きたくても読みたくても、

その気が失せてしまうに違いない。

だがそれでも私は、無理解で無知な者、間違った方向に導かれた者、独断的な者、

知ったかぶり、批判家、狂信者、中傷者、陰謀家、下劣な者、

そして独善者にあふれた世の中に対して、本当の真理を厳しく攻撃的な言葉を
もって怒鳴り込むのは大事だと、繰り返し思わずにいられないのだ。

これらすべての者たちの眼前に,の真理を提示しなければならない。

厳しい真理の言葉によってこそ、初めて何が本当の真理かわかるのだ。

それが自分に向けられていると感じ、当惑し、そして考え始める。

さもないと考えることもないからだ。

足を踏まれれば攻撃心が目覚め 、そこから物事を考え始めるのが人間の常である。

だから私は厳しい言葉で真理を彼らの耳の中に怒鳴り、 また厳しく書かれた言葉で

真理を彼らの目の中に飛び込ませる。

たとえ彼らが私のことを世界一のできそこないだ、大間抜けだ、ばかだ、

などとののしっても、それを止めるつもりはない。

だがここで一度、この間いからどんな答えが返ってくるか見てみたい。

自分を私より上位に見なし、自分の方が適任だと考える一部の人間たちが

主張するように、私は本当に大間抜けなのか、検証したい。

 

(通信教育教材「霊の教え」第八九号から抜粋)

「事実、私はかなり不快で惨めで悲しい体験を度々した。

それはしばしば生命を脅かし、屈辱的で、泣きたいほど惨めに感じさせた。

しかしこのような体験を通じて私は自分自身をはっきりと見極め、

私自身の至らなさと不器用さを認めることができた。

それは良いことだった。

なぜならそれによって私は賢くなり、経験豊かになったからだ。
実際に体験し、危険に直面し、それに打ち勝った者を差し置いて、

誰がそれより良い警告を発せられるだろうか。

自ら危険にさらされて、危険の中で行動し、それに打ち勝ち、

そこから脱出した者だけだ。
これまでの生涯において私は度々、愛情や友情への憧れから発した

感情にだまされてきた。

理性と分別を働かせなかったからだ。

ただ好ましく思う感情と感覚、そしてつながりたいという心理が、

私を度々軽率にし、あらゆる分別ある行動と計算する思考を根こそぎ摘み取って、

私を奈落の底に突き落とした。

そしてそこから這い上がるには苦悩に満ちた、往々にして非人間的な辛酸を

舐めなければならなかった。

それは決して私の気質ではなく、むしろ私の軟弱さと無責任な無知の表れだった。

それは、激しい戦いによってのみ征服し克服できるものだ。

要するにそれは愚鈍とか浅はかとか軽率とかいった問題ではなく、

生の衝動であり、同胞と共にいる安堵感への憧れであった。
だがその同胞の本質たるや、私を邪道に導き、多くのことに挫折させ、

そればかりか愛されたいという要求、そして自らも誰かを真剣に愛したい

という要望をも同様に破滅させた。

良いことをしたい、その方向で働きたいという希望は何をするにも持ち合わせていた。

だが、深い愛も、喜ばしい幸福感への期待も、共に破壊された。

死または途方もない自然の暴威が五度にわたって心からの愛のきずなを断ち切り、

私を殴りつけ、劫罰の熱い地獄へと私の生き身を投げ込んだ。

死神は私から片時も離れぬ道連れとなり、私は自分の中の死と地獄を征服することを

学ばなければならなかった。

私は心の中で自分を怒鳴りつけ、痛みの中から怒りを込めて立ち上がった。

あえぎつつ、うめきつつ起き上がり、深い谷間の中にそそり立つ岸壁を登り始めた。

血を流し、ボロボロになって、痛みにうめきながら岩棚から岩棚へと渡り、

ついに深い谷間から這い上がって、再び陽光を目にした。

今、私が堂々と、大げさでも何でもなく言えるのは、おそらく、生涯のあの短い期間に

あれほど多くの体験と経験を積み、私の人生に常に付きまとう風変わりな状況の中で、

あれほど多くの国籍の様々な人間と接触し直面した人間は、

私を除いてそれほど多くはないだろうということだ。
事実人間は一生のうちに学習し経験する多くの機会を得る。

そしてその体験や経験を表明すれば、聞く耳を持つ多くの同胞の役に立つことがある。

だがそれを可能にするには、その人間の性質や存在が荒れていてはならず、
さらに多くの教養を身につけるためにあらゆる機会を利用しなければならない。

自らの過酷な努力によって、体験の苦味を身をもって味わった末に得た

危険に対する警告や現実的な指標を人に与える時、それを受け取った者は

経験した者に感謝するだろう。

しかしこれらすべての経験は、人間を恐ろしいほどの孤独に陥れる。

経験は人を賢明にし、また博識にもするため、経験ある者と

すべての無経験の者との間に痛ましいほどの孤独の溝が生まれるからだ。

こうして経験ある者の孤独と隠遁が始まるのだが、それを防ぐことはできず、

哀愁の悲しみが彼の胸にこみ上げてくる。

これは愚かさや人間嫌いから来るものではない。

経験ある者にとって無知の者は自分の経験と教えを伝える生徒であるがゆえの

悲しみである。

つまり、経験ある者はそれを伝える言葉を意のままにするが、

無知の者はそれに必要な理解が備わっていないため寡黙となる。

このような理由から経験ある者はしばしば孤独であり、

自分以外に話し相手を持たないことが多い。」

使命を負う者は非常に高い水準の人間的および個人的な長所や強み、

そして必要とされる善的で肯定的な特性などを備えているが、

さらにそれに加わるものとして、霊的および意識的な法則と掟についての

無尽蔵の研究意欲、飽くことを知らぬ知識欲と向学心が挙げられる。

その中には創造と自然に関するすべての普遍的事柄が網羅されており、

そこから無数の認識と評価と経験が生まれ、さらにそれらを通じて新しい

知識が形成される。

この向学心と並んで、主として霊·創造や物質意識の面における事柄や事実を

基盤とした知力は、例えば物質的分野の研究者や科学者などに要求される

純粋に物質知性的な向学心と知力とは比べようもない。

霊的で創造的で意識的な性質の向学心と知力は、物質的で知的な向学心と知力より

はるかに上位にあり、ずっと優位にある。

それゆえ、霊の教えという形態の使命を遂行するには、必要とする能力を

自らの努力で獲得できることが必須であり不可欠である。

その中から、創造的および霊的な絶対真理やその法則と掟と原則、自然の法則、

真理や英知を自ら見分け、浮き彫りにし、理解しなければならないのだ。

向学心は、実に広範にわたる独学的要素の上に成り立つ。

そこには、全人間の逸脱行動、意識的(原注:誤って霊的と称されている)病気、

その他の妄想、躁病、散発性または慢性の意識変化、意識分裂などから生じる

すべての想定される結果を研究し、それを指摘し、そして、たとえこの関連で

不純な目的が追求されていても、容赦なく断言することも含まれる。

つまり別の含い方をすれば、使命を遂行する者は、霊の教えと創造の教えと

自然の教えと意識の教えの枠内で、心と意識自体とその動きについて

必要とされるすべての知識とある程度の経験を持たなければならないことを意味し、

それはまた精神病に関する知識と経験を要求する。
しかしすべてこの向学心とすべての知識とすべての経験も、
人間とその動機と動因に対して必要とされる洞察力がなければ、

不完全であるばかりでなく役に立たない。

また現実性に欠ける場合、思考的および意識的な自己制御に欠ける場合も
同様である。

とりわけ、十分に発達した顕著な自己制御は重要で、厳しい独学を自らに課して

身につけたものでなければならない。

なぜなら、あらゆる状況下で、自分の想念を常に隅の隅まで制御し、

遮蔽する必要が生じるからだ。

つまり、否定的な想念または感情の振動は,どんなに小さくても周囲に

発してはならない。
これを同胞にぶつけてはならないのである。

この前提は、すべての人間と物事に対し、あらゆる状況や事情や体験のもとで、

どの生命体に対しても、完全に中立的で偏見のない態度をとることである。

この態度は、人間その他の生命体の基本的態度がどうであろうと、

血の通ったものであろうとなかろうと、変えてはならない。

最も必要とされるこの自己制御によって、周囲や他の生命体から自分を

完璧に守ることができるのである。

これは、一次テレパシーや霊テレパシーや知覚テレパシーなどを通じて、

高度の霊体、あるいは例えばプレアデス/プレヤール人のような

地球人よりずっと高度に発達した宇宙の人間的生命体とコンタクトする

コンタクティーとなるための最も基本的な条件である。

 

続く